トロイメライ
レストランのアルバイトを終えて彗太が寮に帰ると、携帯電話に母親から電話が入っていた。
「メールすればいいのに…」
三時間前となっている着信履歴を見て、彗太は苦笑した。文野はメールが苦手なのだ。なので、彼女と連絡を取るときはもっぱら電話で直接話すことになる。彗太は慣れた手つきで数字キーを押しはじめた。実家の電話番号だけは電話帳を探すより、直接入力するほうがはやい。
「もしもし、彗太?」
三回目の呼び出し音が鳴る前に文野が電話に出た。
「うん俺。母さん、さっき電話くれた?バイト中だったから出られなかったんだ。今帰ってきたとこ」
彗太はそう言いながら、部屋の窓のカーテンを閉めた。外はもう暗い。
「バイトしてくれるのはいいけど、いったいいつ帰ってくるの?もうお盆よ」
「だから、前にも言ったけど、家庭教師で教えてる子が今年受験生なんだって。ちゃんと休みは取ってあるから、来週には帰るよ」
文野がリビングで、カレンダーの日付とにらめっこしている姿が目に浮かんだ。職業上、休みらしい休みがない母だが、彗太が大阪から帰ってくる日はいつも、これでもかというくらいたくさんのご馳走を準備して待っていてくれる。
「じゃあ、帰ってくる日が決まったら、ちゃんと電話してね」
「わかったって。ところで、門馬はもう寝たの?」
まだ八時を少し過ぎたぐらいだったが、電話の向こうは妙に静かだった。ああ、と文野は少し困ったように答えた。
「それがね、今日、学校で夏休みのプールの授業があったんだけど、あの子途中で倒れちゃって」
「え、大丈夫なのか」
「ほんと、心配しなくていいのよ。ちょっとはしゃぎすぎただけみたいだから。河内先生がちゃんと家まで送ってくださって、お母さんが帰ってくるまで一緒にいてくれたみたいだし」
「河内先生?」
はじめて聞くその名前に、彗太は反応した。
「門馬の小学校の担任の先生。いいひとよ。お母さん、仕事中に門馬が学校で倒れたって電話で聞いてたから、すごく心配してたのに、帰ってみたらうちの庭で先生と遊んでるんだもん。呆れちゃった」
文野は笑った。
「遊び疲れたのか、よく寝てるわ。あの子今ね、日焼けして全身真っ黒なのよ。あんた帰ってきたらびっくりするかもね」
「ふうん」
「あ、そうそう、よかったら河内先生にも何か、大阪のお土産買ってきてもらえる?今日ちゃんとお礼できなかったから」
「別にいいけど」
彗太がややぶっきらぼうにそう答えると、ありがとう、と文野は言った。
「じゃあ、お土産のことよろしくね。おやすみ」
「ん、おやすみ」
彗太は電話を切った。何だか少し釈然としなかった。結局、河内とかいう教師の話に終止していた気がする。彗太は手帳代わりのメモ帳に目をやった。明日は特に予定がない。
「明日、梅田にでも買いに行くか・・・」
ついでに長崎行きのバスも予約しよう、と彗太は思った。
翌日、昼前になって彗太が出かけようとしていた時、突然隣の部屋から叫び声が聞こえた。何事か、と彗太はびっくりして部屋から出た。声が聞こえたのはたぶん、隣の土居の部屋からだ。廊下に出ると、隣室のドアの内側で、祥司と思しき人物が騒いでいるのが聞こえた。
「何やってんだ、あの馬鹿」
彗太は彼がまた何かやらかしたのだと思い、土居の部屋の戸を叩いた。しばらくして、中から困り顔の土居が出てきた。
「何かあったのか?」
「・・・森くんが」
彗太が中に入って事情を聞くと、どうやら祥司が猫のみーちゃんに手を引っ掻かれたらしい。朝から冷房の効いた土居の部屋に居座り、みーちゃんをしつこく撫で回していたら、とうとう爪で右手を引っ掻かれたというのだ。
「ばかか、お前は。あんな大声出して、ばれたらどうすんだ」
「痛たたた!摂津、消毒液かけすぎやって!なあ、みーちゃん」
彗太に傷の手当てを受けながら、それでも祥司は懲りずにみーちゃんに触ろうとしている。
「土居くんも、邪魔だったらこの馬鹿、部屋から放り出していいんだからな!」
「あんま馬鹿馬鹿言わんといてぇ!俺関西人やから、それ傷つくねん!」
「森くん、四日市出身って言ってなかったっけ。関西人というにはちょっと微妙なところだよね」
散らかった部屋を片付けながら、土居はさらっと厳しいことを言った。
「それより、摂津くん、どこかに出かけるの?その格好…」
「ああ、うん。ちょっと梅田行ってくる」
「あっ、例の子とデートですか!?」
「ちがうっ!来週実家に帰るから、土産買いに行くんだよ。あと夜行バスの予約」
彗太は治療の済んだ祥司の手の甲をばしんと叩いた。
「ああ、そっか・・・実家は長崎だっけ」土居が言った。「俺も、こないだバスは予約したけど」
「なんや、土居くんも摂津も帰ってしまうんかいな」
「祥司は帰んないのかよ?家近いだろ」
「んー、この夏はもうええわぁ。冬に地元で成人式あるから、そん時絶対帰らなあかんし」
「ああ、成人式な」
そう言われて、彗太は改めて同学年の祥司らがひとつ年下なのだと認識した。一年浪人した彗太は、今年の頭に成人式を迎えたばかりだった。
「お土産か・・・俺もそろそろ買いに行かないと」
土居が独り言のようにつぶやいた。
「なら、今から一緒に行くか?」
「え・・・あ、うん」
土居は彗太の言葉に若干驚いたようだったが、こくりとうなずいた。
結局、祥司はみーちゃんと留守番することになり、彗太は土居とふたりで出かけることになった。最寄りの駅から電車に乗って、百貨店の多く集まるJR大阪駅に向かった。大阪の北の中心には大規模な地下街が広がっており、目指す百貨店の食品売り場もその地下にある。もちろん長崎にこんなものはなかったので、地下鉄も含めて、彗太はいまだにそれらに慣れずにいる。
「土居くん、何にするかもう決めてる?」
「ううん、全然」
こう広いと、ただの土産の菓子を選ぶのにも悩んでしまう。相談相手として土居がいるのはよかったかもしれない。彗太は頭の中で再度、買っていかなければならないところを確認した。家と、親戚と、母の勤め先と、それから河内という教師。最後に自分の知らない他人の名前が挙がることに、彗太はどことなく違和感を感じた。
「八つ橋・・・はちょっとベタすぎるかな」
そんな彗太をおいて、土居はさっそく自分の買い物に取り掛かっている。
「バウムクーヘン、うーん、お年寄りが食べるかな。やっぱりお煎餅とかのほうがいいか。あ、でも堅いか・・・だったらゼリーとか、いや、羊羹・・・うーん・・・だったら八つ橋でいいや」
結局彼は八つ橋で落ち着いたらしい。色々な味があったのでふたりで試食して、土居は黒ごま味などを何箱か買っていった。
「摂津くんはどうするの?」
八つ橋の紙袋を手に、土居は彗太に尋ねた。文野いわく、神戸の洋菓子を土産に買っていくと、同僚の医師や看護士らがなぜか対抗意識を燃やすらしいので、彗太は京都などの有名な和菓子を考えていた。もちろん大阪のものも売っているが、長崎ではあまり大阪の菓子のイメージがないためか、親戚には大方京都のもののほうが喜ばれる。