トロイメライ
「先生、頭痛いのん?」
「・・・二日酔い」
教え子と理科の問題集を前に、彗太は机に肘をついて頭を抱えていた。
「知ってる?未成年は酒飲んだらあかんねんで」
「俺は二十一だ!」
彗太がそう言うと、つばさはけらけらと笑った。大声を出すと頭が痛い。
「それより集中する!この問題まだ途中だろ。せっかくの土曜を無駄にする気か」
「二日酔いのひとに言われたくないわぁ」
「うっ・・・。これ終わったら、休憩にするから」
つばさは「よっしゃ」と言うと、先ほどからほったらかしにしていた化学の問題に再度取り掛かった。
今日の朝、彗太が蝉の鳴き声で目を覚ますと、東向きの窓から差す朝の日差しの中、住人らは散らかった談話室の畳の上でそのまま雑魚寝していた。彗太のすぐ隣には、すやすやと寝息をたてて眠る土居の姿があった。彗太より先に起きていたのは大和だけで、なぜか顔を見るなり爆笑された。自分が昨晩何をしたのかはよく覚えていないが、不思議なことに、土居に対する苦手意識や胸のしこりがすっかり消えてなくなっていた。
「先生、終わったで」
「ん」
彗太はつばさが自信満々に出してきた回答―といっても基礎練習問題だが―の採点に取り掛かった。彼が赤ペンでチェックをしている間、つばさはあくびをしながら自分のベッドの上に横たわった。
「寝るなよ、まだあるんだからな」
「んー・・・でも、ちょっと疲れてん」
今にも眠ってしまいそうなつばさを、彗太はそれ以上責めなかった。疲れているのはよくわかる。夏休み中とはいえ、毎日バスケ部の練習のために学校に通い、そのあと週四日・三時間の家庭教師をこなすのは少々きつい。彗太は、窓際にハンガーでぶら下げてあるバスケ部のユニフォームに目をやった。今は中学最後の引退試合に向けて猛練習中らしい。つばさは小さな寝息をたてはじめた。あと五分したら起こしてやろう、と彼は思った。
彼女が両親と暮らす八尾家は、大宮寮から電車で二駅ほど離れたところにある。少し遠いので、彗太は大和に借りた自転車で、週に二回この家に通っている。前任だった薬学部の先輩の仕事を引き継いでから、そろそろ半年になろうとしていた。
(あー、頭痛い)
彗太はこぶしでこめかみをぐりぐりと押さえつけた。文野が頭痛の時によくやる癖だと、昔祖母に言われたことがある。別にこれで頭痛がよくなるわけではないが、いつもついやってしまう。
その時突然、大音量で携帯電話の着信音が鳴った。
「うわっ!?」
「あーごめん。うちや、うち」つばさはその音に気づいて目を覚ますと、部活のスポーツバッグの中から装飾だらけの携帯電話を取り出した。
「あ、亀っち?うん・・・うん・・・わぁ、行く行く!へ?あぁ大丈夫、童顔もうすぐ帰るから。ほんならまた後でな」つばさはそう言って電話を切った。
「おい、ペラ子・・・」
「先生おはよう!採点終わった?」
「童顔ってのは俺のことか!」
「えーでも、うちが付けたんとちゃうし。うちが、先生童顔やねん!って友達に言ったら、みんなが勝手にそう呼ぶねん」
「って、結局お前が言ったんじゃねえか」
「だってぇ!事実やもん!それに、童貞よりはましやろ」そう言うと、彼女ははっとなって、「豊中先生のあだ名」と付け加えた。豊中とは、つばさの国語と社会を受け持っている彗太の大学の同級生である。
「そんなことより、うち、お祭り行かなあかんから、はよ終わらせよ」
つばさはマイペースな様子でそう言った。
「お祭り?」
「うん、夏祭り。今日、この近くの河川敷であるんやって」
彗太の脳裏に、ふと十年前の約束が思い起こされた。千鶴、もといつると千に会うまでは、彼自身すっかり忘れていたのだが。
「先生どうしたん?まだ頭痛いん」
「いや・・・」
雨の中、ずっと自分を待っている小さな千鶴の姿が目に浮かんだ。はやく迎えに行かなければ、彗太はそう感じた。
呼び出し音を十回ほど鳴らしたところで、千がようやく電話に出た。
「・・・はい?」
「あ、俺、彗太だけど」
彗太はそう言うと軽く咳払いをした。彼の携帯電話の番号はだいぶ前に教えてもらっていたのだが、こうやって直接電話をかけることははじめてだった。寮の自室のベッドの上に座って、彗太は少しそわそわしながら受話器を右から左に持ち替えた。
「なあ、今時間あるか?」
「用件は何?」
それに対し、千はずいぶんとそっけない。彗太はさっそくめげそうになったが、それでもなんとか、今日河川敷で夏祭りがある旨を伝えた。
「ふうん、お祭り」
「千も来るか?せっかくだし、一緒に行こう」
相手が千であるせいか、今回は素直に誘い文句が出た。千は、電話の反対側で少しの間考えてから、「彗太だけ?」と尋ねた。
「ああ、うん。俺だけだけど」
「なら行く」
彗太は彼がなぜそんなことを訊くのか不思議だったが、とにかく一時間後に直接現地で会う約束をして、電話を切った。
夜の七時、日が暮れて暗くなりだした河川敷に、ぞろぞろと人が集まりはじめていた。
「あ、千!こっちこっち」
他の見物客に混じって、千が堤防の階段を下りてきた。下で手を振っている彗太に気づくと、彼は少し微笑んだ。
「おまたせ。何?そんながっかりしたような顔して」
彗太の顔を見るやいなや、千はそう言って、まわりの見物客らに目をやった。すぐ側では、色とりどりの浴衣をまとった四、五人の少女らが和気あいあいと連れ立って歩いている。
「もしかして、俺が浴衣着てくると思った?」
「はぁ?」
「悪いけど、そういうことはつるか、他の女の子に言ってあげて」
「ばーか、そんなんじゃねぇよ」
彗太はそう答えたが、千の言葉は半分図星だった。あの日、千鶴は浴衣が着たいと言っていた。結局それは叶わなかったのだが、彗太の頭の中にいる、一緒に夏祭りに行くはずだった千鶴はなぜか、祖母に着付けてもらったのであろう浴衣姿で彼を待っていた。
「じゃ、行こう」
千は河原の夜店の明かりを指した。電話ではあんなふうだったが、彼はそれなりに楽しんでいるように見えた。縁日の屋台が並ぶ通りに出ると、人ごみの熱気と乾いた土の上を歩く足音、ソースや綿飴のにおい、どこかから聞こえる祭囃子が、縁日独特の不思議な雰囲気を醸し出していた。
「迷うなよ」
彗太は、人の波に押し流されて、どこかに行ってしまいそうな千の腕を引いた。
「大丈夫だよ、子どもじゃないんだから。それにしても、縁日だけなのに結構人が多いね」
人ごみの中を並んで歩きながら、千はあたりを見渡した。
「昔は花火大会も一緒にやってたんだよ。今は景気悪いせいか、やめたみたいだけど」
ほんの少しだけ寂しそうな顔で彼は言った。
「昔は、って、来たことあるのか?」
「俺じゃなくて千鶴がね。昔、この近くに住んでたから。言ってなかった?」
そんなこと、彗太には初耳だった。そもそも千鶴が大阪出身ということ自体、今はじめて知った。
「大阪人なのに、全然訛ってないんだな」
「ん・・・確かに俺はね。母さんも九州のひとだしな。でも千鶴は少し、訛ってたと思うよ。つるがそうだから」