トロイメライ
土居は軽く頭を下げて笑った。はじめて見る彼の笑顔に、彗太は少々面食らった。
「べ、別に、礼を言われるほどのことじゃ」と彼は答えた。
金曜の夜、寮の一階の談話室は酔っ払いの集まる居酒屋と化していた。
「次!俺、森祥司が歌いまーす!」
「よっ、日本一!」
床の上にはアルコールの空き缶と空瓶、それからスナック菓子のごみが散乱していた。その向こう、キッチンの水道からは、竹で作ったそうめん流しの装置が全長三メートルほどにわたって談話室までのびている。そもそもは普通に市販されている卓上用の機械でやるはずだったのが、工学部の祥司が張り切りすぎて、こんな本格的なものになってしまった。彗太とジョナも材料の竹を刈りに、真夜中の大学に付き合わされた。
「ちょぉ、聞いてぇやジョナぁ、ひどいんやって〜」
「泉さん、ボクもうお酒ええです・・・」
そのジョナは、かわいそうなことに酔っ払った泉に絡まれ、彼女の愚痴に付き合わされている。すぐ隣では、祥司が卓上に上がって演歌を熱唱しているが、微妙にずれた手拍子を取る大和以外、誰もそれを聞いていない。
「おい!土居も飲めよ!」
「・・・え」
彗太は、部屋の隅でひとりちびちびと飲んでいた土居を捕まえると、彼が手に持っていた焼酎のグラスに、上から無理やりビールを注いだ。
「混ざったんだけど・・・」
「細かいことは気にすんな!お前それでも九州男児かぁ!?」
「いや、俺は富山出身・・・」
「とにかく飲もうぜ!な!?」
彗太は自分よりはるかに背の高い土居と肩を組むと、缶に入った残りの酒を一気に飲み干した。
「・・・」
「何だよ、嫌そうな顔しやがって」
「え?」
「だいたい土居、お前はいつもそうだ。大学で俺らが馬鹿やってても、お前はひとり澄ました顔で、興味なさそうにしてるだろ」
「そういうつもりじゃ、ないけど」
「ならどういうつもりだよ」
彗太は酔っ払って真っ赤になった顔を、土居の顔に近づけた。
「その、楽しそうだなぁって、いつも見てた」
「・・・へ?」彗太は間の抜けた声を上げた。
「俺、あんまり喋るのうまくないし、それにその、訛りがあるから・・・」
ぽつりぽつりと土居は言葉を発した。
「だから、うまく言えないけど・・・とにかく、別に興味がないとか、澄ましてるとかそういうのではないよ。でも、そういうふうに見えたのなら、ごめん」
彼も少し酔いが回ってきたようで、頬がほんのりと赤くなり、いつもより饒舌になっている。言ってしまってすっきりしたのか、彼はビールで割った焼酎の入ったグラスをぐいっとあおった。
「わ、悪い・・・」
反対に、少し酔いが醒めて冷静になってきた彗太は、土居の肩に回していた腕を離した。土居はため息をついた。
「千鶴ちゃん」
「は?」
「前、一緒に図書館にいたよね」
「あ、ああ」
突然話題が切り替わったので、彗太は戸惑った。気がつけば、いつのまにか土居の顔もだいぶ真っ赤になっている。
「彼女見ると、ダイフクのこと思い出すんだ」
「は・・・大福?餅?」
「ダイフク、昔実家で飼ってたうさぎ」
「う、うさぎぃ?」
彗太は手に持っていたビールの缶を落としそうになった。
「目元のあたりとか、なんとなく似てるんだ。だから懐かしくて」
土居は、愛おしそうに実家のうさぎのことを語った。
「幼稚園のときに家に来てさ、まっ白で、ふわふわで、大人しくて、ものすごくかわいかったんだ。でも、俺が中三の時に寿命で死んじゃって」
ふいに土居の目が潤んだ。酔っているせいか、それを見た彗太までもらい泣きしそうになった。
「なんやなんや、そこ辛気くさいでぇ!俺が楽しい曲歌ったるわぁ」
祥司がテレビのリモコンをマイク代わりに、今度は童謡の『ふるさと』を歌いはじめた。無駄によく通るその美声が、談話室の中に響き渡る。
「その日の朝まで、ほんと、元気だったんだよ」
「うん・・・」
彗太は土居の肩をぽんと叩いた。
大切なだれかを喪う痛み。このときばかりは、彼の気持ちが痛いくらいにわかった。