トロイメライ
「おーい、千!」
彗太は、図書館の建物の前で自分を待っていた千に向かって走った。
「千、だよな?」
「そうだよ」
一応確認をとった彗太に、千は少し笑みを見せた。体調はもうすっかりよくなったらしい。
「待ってもなかなか来ないから、先に行こうかと思った」
「ごめんって」
すでに約束の時間を十分ほど過ぎていた。彗太は当然時間に間に合うように家を出るつもりだったのだが、出る直前になって、寮の外のホースで水浴びをしていた祥司に頭から水を浴びせかけられ、あわてて服を着替えてきたのだ。おかげでまだ頭が濡れている。
「じゃ、行こうか」
千は目の前の近代的な建物の入り口を示し、彗太もそのあとに続いた。今日ふたりが会う約束をしたのは、図書館は図書館でも市立図書館で、彗太は大阪に出て来て以来、ここを訪れるのははじめてだった。入り口付近のコインロッカーに荷物を預けて、彗太と千は図書館の中に入った。
「で、何の本を探すの?」千が館内の案内板の前で彗太に尋ねた。市立図書館を選んだのは千だが、そもそも図書館に行こうと誘ったのは彗太だった。
「えっと・・・」彗太は、新聞・雑誌、さまざまな学問から児童書まで多岐にわたる図書の一覧表のなかから、『心理学』の三文字を探した。「あった、四階の端っこだな」
夏休みということもあって、図書館のなかには小学生の姿が数多く見かけられたが、心理学関係の書籍にはやはり用がないのか、その一角は閑散としていた。
「心理学?」千は区画表示を見てきょとんとした。「何で?君、心理学専攻だっけ?」
「いや、薬学部だけど」
なぜ心理学かと問われると、彗太も返答に困る。千の話から、なんとなくそう思ったのだ。
「俺、心理学の本なんて読んだことない。フロイトは…ちょっと違うか」
「フロイトって、エスとかイドとかいうやつか・・・高校で習ったな」確かに習ったが、覚えているのは変な絵を描かされたことだけである。彗太は難しそうな本が並ぶ書棚から、適当に『心理学入門』と書かれた、比較的一般向けと思われる書物を手に取った。だが、ぱらぱらとめくっただけですぐに見るのをやめてしまった。彗太には向かない。
「君、もしかして俺のこと、二重人格とかそんなのだと思ってる?」
「あ・・・やっぱり、そうなのか?」
さあ、と千は首をかしげた。
「一度、冗談で言われたことがあるけど。でも、二重人格とか多重人格とか、実際どういうものなのかよく知らないからな。俺では何とも・・・」
よく知らないのは彗太も同じである。先に、心理学科の友達にそれとなく訊いてみるべきだったろうか。結局、ふたりは数冊の本にざっと目を通したあと、小一時間もしないうちに一階のロビーに戻った。
「これからどうしようか」
千が尋ねた。時間はまだ午後の二時過ぎだった。とくにすることもないが、外はサウナのように暑いので、ふたりはとりあえず一階に設けられた休憩コーナーに座った。そこでは彼らと同じように、することがなくて暇な学生が、雑誌を読んだりパソコンをしたりしていた。大きなソファーに並んで座って、彗太は改めて隣の千を見た。
「ていうか、さっきから思ってたんだけど」
「何?」
「なんで、図書館ごときにそんな、なんていうか、かわいい格好してくるんだよ」
彗太は、こざっぱりと身なりを整えて、薄く色をつくった千を指した。
「お前、男なんだろ」周りに聞こえないように、彗太は小声でそう言った。
「それは・・・つるのためだよ」
「つる、の?」彗太は、この『つる』という呼び方にまだ慣れていなかった。ともすると、鶴子、と呼びそうになる。
「つるは結構、女子のくせに、服装とかお化粧とかそういうところ適当だから。スカートとかワンピースとか、かわいい洋服は好きみたいなんだけど。俺はさすがにそれはちょっと・・・」と言って、千は黒のハーフパンツを履いた足元を見た。「でも俺、女の子はお化粧とか髪型とか、きちんとしてたほうがいいと思うんだけど。なあ?」
「なあ、って言われても」案外保守的なところがあるのだ、と彗太は思った。
「俺たち服の趣味が違うから、ちょっと困るんだよね。つるはピンクとかベージュとか花柄とか、そういうのばっかり買うし」
「別に、着ればいいじゃねーか」似合うだろう、と彗太は思った。
「いやだよ、恥ずかしい」千は本気で嫌そうに、首を横に振った。そう言う彼の今日の服装は、ごくシンプルな白と黒のツートーンだった。
「じゃあ、つるに言えばいいのに。俺は着られないから、ピンクの服ばっかり買うなって」
「それは・・・」千は一瞬言葉を詰まらせた。「言ってなかったっけ?つるは、俺が自分と同一人物だって知らないんだよ」
「え?え?ちょっと待った、こんがらかった」
「要するに、俺、千のことは、たまにくる友達か何かに思ってるんだ」
彗太は、つるが彼のことを以前、「友達」と呼んでいたことを思い出した。
「それじゃ、お前になってる時はどうするんだよ。色々大変じゃねーか」
「それは大丈夫。俺と交代してるときつるは寝てるけど、夢でまた交代したあと、その間にあったことは、俺と一緒にいた記憶として引き継がれるから。時々つじつまがあわなくて混乱することもあるけど、まあ大した問題はないよ」
「なんか・・・ややこしいなあ」
彗太がそう漏らすと、千は「そう?」と言った。
「簡単だよ。全部、つるの都合のいいように回ってるんだ。嫌なことは俺が全部引き受ける。それが終われば、つるは全部自分のものにしてしまう。つらいときには夢で俺を呼んで、自分は終わるまで眠っていればいいんだ。それだけ」
千は淡々と述べたが、言葉の端々に棘のようなものが感じられた。
「・・・お前、もしかしてつるのこと嫌いなのか?」
「え?まさか」千は一転、そんなわけないだろう、という表情をした。「俺はそのために生まれて、そのためだけに存在するんだから」
彗太は、つると千という、千鶴から分かれたこのふたりの間には、彼にはとうてい理解しえない複雑な感情が存在するのだと直感した。つるは、彗太の前では千のことを友達だと言っていたが、本当はもっと違う存在なのかもしれない。
「じゃあ、つるに戻った時、今俺とこうしてる記憶はどうなるんだろうな」
「うーん、たぶん、俺と君と三人で、なぜか一緒に図書館に行って・・・っていう風に解釈されるんだと思う」
彗太は、千と自分がつるを間に挟んで、市立図書館の休憩コーナーで仲良く談笑している姿を想像した。なんともおかしな図だ。彗太の想像の中にいる千は、背が高くて色白で、どことなく生前の父の面影があった。
どれくらいの間そうしていたのだろう。気がつくと、夕方の四時前になっていた。結局何も進展していない。そもそも進展とは何だろう、と彗太は考えた。つるを連れ戻すことだろうか。それとも――
「彗太!」
「はっ?」
「寝てた?」
ふと気がつくと、すぐ目の前に千の顔があった。
「わ・・・なんだよ、びっくりさせんな」あまりに近かったので、彗太は思わず顔を赤らめた。「ていうか、今俺のこと、彗太って呼んだ?」