トロイメライ
「うん、何て呼んでいいかわからなかったから、とりあえず。それより疲れてるんじゃないの?ぼーっとしてたよ」
「ああ、それはペラ子のせい」彗太は教え子の顔を思い出して、軽い頭痛を覚えた。
「ぺらこ?何それ」
「家庭教師のバイトで教えてる子。今中三で、八尾つばさっていうんだけど、俺らはペラ子って呼んでる」
ペラ子の正確な由来は彗太も知らないが、本名のつばさからプロペラに意味が転じて、そこから『ペラ』を取って単純に『子』を付けたのだろう。文系教科を受け持っている友人らは、「いつも空回りだから」と言っていたが。
「大変な子なの?」
「まあ、ちょっとな・・・」
彼女自身もなかなか手のかかる生徒だが、それよりむしろ、母親の方に問題があると彗太は思っていた。つばさの母親は自分の娘に、それこそ少し異常なのではないかというくらい、大きすぎる期待と課題を与えている。今回の高校受験でも、第一志望の高校は、今のつばさの学力でははっきり言って難しい。
「じゃあ、そろそろ引き上げたほうがいいね。今日はありがとう」
千はにこっと笑った。彗太は彼の、ひいては彼女の素直な笑顔を久しぶりに見たので、思わず胸が高鳴った。
「…彗太?行かないの」
「あ、ああ」
彗太と千がソファーから腰を上げると、ちょうど時を同じくして、雑誌を数冊手に持った若い男が休憩コーナーにやってきた。
「摂津くん?」
「あれ、土居くん」
おたがいすぐに気がついて、その場に立ち止まった。
「えーと、久しぶり」
隣に住んでいてこの台詞もどうか、と彗太は思ったが、実際そうなのだから仕方がない。そもそも彗太は、彼がまだ帰省せずに寮に残っていたことすら知らなかった。
「うん、久しぶり」
土居は、それとなく隣の千を見た。
「こんにちは、はじめまして。摂津くんの友達で、鶴見っていいます」
千は、普段では考えられないようなかわいらしい声と笑顔で土居に挨拶をした。そのあまりの落差に彗太は転びそうになったが、これが千の演じる『千鶴』なのだろう。
「土居です。こちらこそ、はじめまして」
実際には一度、薬学部棟で会っているのだが、千に合わせて土居はそう答えた。真面目で硬い表情が、いつもより柔らかいような気がした。彗太はそれが少し不愉快だった。
「・・・ゆ、じゃない、千鶴。行くぞ」
「ああ、うん。さよなら土居くん」
彗太は千の腕を引いて、図書館の出入り口に向かって歩いていった。
「今の子、彗太の友達?」
「友達・・・うん、まあ」
「優しそうな子だね」
「そ、そうかぁ・・・?」
土居に対する千の印象は悪くないようだった。好意をもって接するものは、決して悪くはとらえられないということだろうか。彗太は、なぜなのか自分でもよくわからないが、胸のうちにもやもやとしたものを感じていた。