トロイメライ
2章 ふたり
猛暑とは、こういうことをいうのだろう。
「あかん、死ぬ・・・」
すでにトランクス一枚になっている祥司は、自室から持ち込んだラップトップに向かいながら、そうつぶやいた。
「なんやねん、これ。暑すぎるやろ。眼鏡が曇って課題が全然進まへん・・・」
「暑いって言うな、余計に暑くなるだろ」
同じく寮の談話室でパソコンに向かいながら、期末課題のレポートを片付けている彗太が祥司に言った。彗太らの部屋には冷房がない。なので、こうして扇風機のある一階の談話室に下りてきたのだが、それでもあまり変わらない。キーボードを叩く手の甲に、額からぽとりと一粒の汗が落ちた。
短い梅雨も明け、大阪では連日のように、日中平均気温が三十五度を越えることが続いていた。世間はそろそろ夏休みに入るようで、長崎の実家からも数日前、弟の門馬の一学期の成績表の内容がメールで送られてきた。身体が弱いためどうしても休みがちになる体育を除けば、国語も算数もほとんどすべて最良の評価で、自分のことではないけれども、彗太は何だか鼻が高かった。これで少しわがままなところも治ればいいのだが。
「うわぁ!」
突然、祥司が大きな声をあげた。
「何だよ、うるせーな!」
「このポンコツが!暑さでフリーズしよった!うそやろ、ほんま勘弁してぇ!」
暑いのに凍るとは、よくよく考えればおかしな表現である。祥司は古い型の黒いラップトップを手で上から叩いた。
「あぁもう・・・ジョナ呼んでこいよ」
ジョナことジョナサンは、ああ見えて意外とコンピューター機器全般について詳しい。なので彗太も祥司も、自分たちのパソコンに何か問題が起こるたびにジョナの世話になっている。住人のなかで最年長の大和がこの点にかんしてまったく使い物にならないため、今この寮でインターネットが使えるのは、一切すべてジョナのおかげである。
「でもジョナの奴、ここが暑いからって、さっき例のかわいい彼女の家に逃げよった・・・裏切り者めぇ・・・」
祥司は泣く泣く手動で電源を落とした。パソコンの再起動音を聞きながら、これらのせいで部屋の気温が一度か二度は高くなっているのではないか、と彗太は本気で思った。
七月も後半に差し掛かり、授業のために大学に通うことも徐々に少なくなって、あとはいくつかのレポート課題だけが残されていた。
日が暮れはじめて少し涼しくなった頃、ようやくレポートを仕上げた彗太は、まだ談話室でパソコンと格闘している祥司をそのままにして、レポートのプリントアウトと提出のために必要なものだけ持って大学へ向かった。プリンターのある図書館では、彼と同じようにパソコンに向かって課題に追われている学生の姿があちこちで見られた。冷房の効いた図書館の中は涼しくて、最初からここで作業すればよかっただろうかと思ったが、設定温度が低すぎるのか、五分もいると寒さで身ぶるいがしてきた。見れば、大概の女子学生は何か上着を羽織っているか、ないしは膝の上に毛布を掛けている。彗太は無意識に、目で彼女の姿を探した。
(いない、か)
千鶴とはあの雨の日以来会っていない。というより、避けられている。彗太はそう自覚していた。先日中庭で偶然すれ違ったときも、食堂で見かけたときも、彼女は彗太の姿を認めるやいなや、逃げるようにその場から立ち去っていった。
「摂津くん、何かしたん?」
そのときたまたま食堂に居合わせた泉に問われたが、彼にはまったく身に覚えがなかった。いや、何ひとつないと言えば嘘になるが、いずれにせよ、別れ際の千鶴の言葉は彗太をひどく落胆させた。あれから一ヶ月経ってだいぶ立ち直ったのだが、それでもまだ思い出すとつらい。
「あー・・・」
彗太は印刷中のプリンターの前で頭を抱えた。自分がいったい何をしたというのだろう。なぜ千鶴が急に態度を一変させたのか、彼にはさっぱりわからなかった。ただ、彗太自身すっかり忘れていたことだが、十年前夏祭りに行く約束を反故にしたことが胸に引っかかっていた。彼はプリンターから出てきた紙の束をたばねて、それを家から持ってきたステープラーで綴じた。悩んでいても仕方がない、とにかく今はやるべきことをしよう、彗太は自分にそう言い聞かせた。
提出のために桃谷の研究室を訪れると、彼はちょうど帰宅しようとしていたところだった。
「おー、摂津か。何や、レポートか?」
「はい」
彗太はまだ少し温かいレポート用紙を桃谷に手渡した。桃谷は、おおきに、と言いながらそれを受け取ると、そのまま研究室から出て、入り口の鍵を閉めた。
「まだ締め切りまで三日もあるのに、感心なこっちゃ。土居も今日の昼前に出しに来たけど」
「土居くんが?」
そういえば最近会っていないな、と彗太は思った。授業が少なくなったせいで、隣に住んでいるにもかかわらず、少なくともここ一週間はその姿を見ていない。
「土居は仕事がはやいからなぁ」戸締りを確認すると、ふたりは何とはなしに並んで歩きはじめた。
「そういえば摂津、お前、土居と同じ寮に住んどるんやってな。仲ようしてるか」
「ええ?はあ、まあ・・・」彗太はそうとしか答えようがなかった。
「まぁ、仲ようしたってな。あいつはちょいと、何というか、引っ込み思案やから」
桃谷はそう言うと、例のタイガースの扇子をポケットから取り出して、やや後退気味の頭をあおいだ。彗太は、桃谷がそんなことを言うとは思っていなかったので、なんとなく意外な感じがしたが、とりあえず「はい」と答えた。
桃谷とともに薬学部棟を出て、南通用門まで真っ直ぐ歩いたところで、彗太は前方に見覚えのある姿を見つけた。
「あっ・・・」
そう小さく声をあげたのは千鶴のほうだった。重そうな本を両手にいくつも抱えて、彼女は彗太から目をそらすようにうつむくと、図書館のほうへジーンズで足早に駆けていった。
「今の子、摂津の知り合いかいな?」桃谷が不思議そうに尋ねた。
「・・・わかんねぇっす」
彼女があの千鶴なのか、彗太には本当にわからなかった。いっそぜんぶ自分の勘違いで、会ったこともないまったくの別人だったらいいのに、と思った。
それから数日経った七月末のある日、家庭教師のアルバイトから帰る途中、彗太は突然の夕立に見舞われた。もちろん傘など持ち合わせていなかったので、あわてて近くの大型書店のなかに駆け込んだ。
「うっわ・・・なんだよいきなり」
突然の豪雨のせいで、彗太は頭のてっぺんから足の先まですっかりびしょ濡れになってしまった。その後も彼と同じように外にいた通行人らが、あるものは鞄を頭の上に抱え、またあるものは晴天用の日傘をたたみながら、広い店内に逃げ込んできた。もともと店の中にいた客らも、ざわざわと入り口の自動ドア付近に集まってきて、雨の糸でまっ白になった外を見ていた。彗太はそのなかに偶然、千鶴がいるのを見つけた。
「あ、鶴子」
あまりに予期していない遭遇だったので、彗太の口からは思わず昔のあだ名が飛び出した。びしょ濡れになった彗太を見て、千鶴は一瞬はっとなったものの、なぜか今回は逃げなかった。少しの間考えるようにしたあと、彼女は鞄からハンカチを一枚取り出して、それを彗太に差し出した。