トロイメライ
彼女はもう一度念を押してから電話を切った。彗太は北浜に簡単に事情を説明してから、最寄の電停まで全速力で走り、石橋行きの電車に飛び乗った。
(はやく、もっとはやく走れよ)
がたんごとんと揺れる電車の中で、心臓の鼓動だけがはやく波打っていた。焦るな、落ち着け、と自分に言い聞かせる一方で、彗太はどうしようもない不安に駆られていた。
(父さん)
車窓から見える港の空は、薄くピンク色に染まりはじめていた。彗太は紙の切符を手で握り締めた。
病院では、文野が制服姿のまま、伯母の市子と一緒に彗太を待っていた。
「彗太」
彼女は息子の顔を見ると、一瞬泣きそうな表情をした。だが、彼女はそれをすぐに拭い、手短に今の状況と父の容態を説明した。
「お母さんも行かなきゃいけないから、簡単に言うわね。今日、家に帰ってくる途中に、お父さんは道で倒れたの。すぐ病院に運ばれたんだけど、すごく危険な状態だって、先生が」文野は彗太の肩に手を置いて、まっすぐに彼の目を見た。「今晩が峠だって・・・だから、彗太も覚悟しておいて」
さすがに最後の方は声が震えていた。最後に彼女は彗太を抱きしめると、市子に「よろしくお願いします」と言って、父のいる集中治療室に向かっていった。彗太は始終うなずくだけで、何も言うことができなかった。
その晩、彗太は病院のロビーで夜を明かした。「寝てもよかよ」と隣に座る伯母は言ったが、彼は眠ることのできないまま、非常灯の緑の明かりと、時折聞こえる医師らの話し声のなか、ロビーのベンチで不安と闘っていた。外では昼間の晴天が嘘のように、強い雨が降り始めていた。
朝の五時頃になって、ようやく文野がロビーに戻ってきた。
「文野ちゃん」先に市子が気付き、ロビーのベンチから腰を上げた。
「母さん」伯母に続き、彗太も疲れきった様子の母に駆け寄った。「父さん、大丈夫なの」
すると、途端に文野の目から大粒の涙がこぼれた。彗太の脳裏に一瞬、最悪の事態の可能性がよぎった。しかし、文野は大きくうなずいた。
「まだ意識は戻ってないけど、危険なところは越えて、もう大丈夫だって・・・」彼女は安心して力が抜けたのか、ロビーの床にへたり込んで、彗太の胸で声を押し殺しながら泣いた。
ふたりは一度家へ帰宅することになった。まだ電車の出ていない時間だったので、伯母の車で家まで送ってもらった。後部座席の窓から見た外は、あいかわらず雨が降り続いていた。文野はすでに泣き止んで、いつもの冷静な母に戻っていた。
「それじゃあ、母さんは病院に戻るから」文野は彗太を寝室まで連れていくと、簡単に身支度を整えてから、ふたたび出勤していった。「寝てていいのよ。もしお腹が空いたら、冷蔵庫に野菜炒めと生姜焼きが入ってるから。ご飯は炊飯器のスイッチ入れるだけで炊けるからね」
「そのくらいできるって」
「そうね、もう彗太も六年生だもんね」
彗太は自分も病院に残りたかったが、ベッドに入ると考える間もなく眠ってしまった。
目を覚ましたのは、昼をとうにまわった夕方の四時過ぎだった。まだ雨が止んでいなかったので外は薄暗く、午後なのか午前なのか、最初彗太は判断できなかった。ベッドから身を起こし、一階に降りようとしていると、家の外で車のエンジン音が聞こえた。
(母さん?)
母親が帰ってきたのだと思って、彗太は急いで階段を下りた。玄関を開けると、シルバーの乗用車が、彗太の家の前ではなく隣の鶴見の家の前に止まっていた。どこかで見たことがある車だと思ったら、運転席と助手席から鶴ばあの娘夫婦が降りてきた。それに続いて、後部座席から彗太の知らない女がひとり、雨の中傘も持たずに出てきた。まだ若いのに、なぜか悲痛そうな、やつれた顔をしていた。彗太が玄関の軒下で突っ立っていると、背後のベランダのほうから物音がした。振り向くと、窓の外に千鶴が立っていた。
「あ・・・」彼女の顔を見て、彗太は昨日の約束を思い出した。「鶴子」
彗太が窓際に近づくと、千鶴は一歩後ずさった。ガラス越しに見ても、雨に濡れた小さな身体が冷たそうだった。中に入れてやろうとベランダの戸を開けると同時に、雨の中から、鶴ちゃん、と呼ぶ鶴ばあの声が聞こえた。一瞬、彼女の肩がびくりと震えた。まだ用意できてないの、と今度は鶴ばあの娘の声がした。何かおかしい、と思いながら彗太がベランダの外に下りようとすると、千鶴は彼から逃げるように、隣の中庭のほうへ雨の中を駆けていった。
(え?)
彗太はまた、千鶴のあの目を見た。はじめて会った時に見せた怯えの表情が、今また彼女の顔に浮かんでいた。ふたたび表のほうから車のエンジン音が聞こえた。嫌な予感がして、彗太は玄関に走った。裸足のまま外に飛び出すと、ちょうど千鶴がさきほどの女に手を引かれて車に乗り込んだところだった。
「つる」
彗太の声を掻き消すように後部座席のドアが閉められ、千鶴を乗せた車は走り去っていった。その場に残された彗太に聞こえるのは、石畳の坂道に打ち付ける激しい雨音だけだった。隣家に咲くあじさいの花びらが、強い風に揺さぶられて、道路の上の水溜りの中にぽとりと落ちた。