トロイメライ
一学期の終業式は午前中で終わり、担任から諸注意を受けて、成績表と夏休みの宿題を受け取ると、彗太たちは上履きやら植木鉢やらを抱えてそれぞれ下校していった。
「摂津ー、またプールでなー」
「おう」
坂の下で彗太は友人らと別れた。明後日からはさっそく夏休みの水泳の授業がある。中学受験を控えた同級生らはすでに色々と忙しそうだったが、彗太は受験もないし、夏休みの宿題もほとんど終わらせてしまったので、今年の夏は気が楽だった。坂の上を見上げると、雲ひとつない青い空から、まぶしい夏の日差しがぎらぎらと照りつけていた。
彗太は合鍵で家の玄関の戸を開けた。守は例の絵画教室の件でまた出かけている。こんな暑い日に大丈夫だろうか、と彗太は身体の弱い父のことが少し心配になった。ランドセルをソファの上に置いて、ダイニングテーブルに目をやると、守から彗太に宛てた書置きが残されていた。
『冷蔵庫にゼリーが入ってるから 鶴子ちゃんと食べてね お父さんより』
職業柄か、ただのメモ用紙にもかかわらず、わざわざ文字の周りに絵を描いて、そのうえ色鉛筆で彩色までしてあった。男の子と女の子が一人ずつ、かもめの飛び交う海辺に仲良く並んで立っている。どうやらこれは彗太と千鶴らしい。
「まったく・・・」
彗太は笑いつつ、書置きをそこに残して、台所の冷蔵庫の扉を開けた。中にはラップをかけたガラス容器が二つ並んでいた。
「な、なんだこれ・・・」無色透明のゼリーの中に浮かんでいるのは、一方は龍、もう一方はウサギだった。どちらもオレンジ色で、よく見ると果物のびわを包丁で切って作られているようだった。言ってしまえばただのびわゼリーなのだが、細かすぎる細工はまるで宮廷料理のようだ。守のあまりの凝り性に、彗太は感心を通り越して呆れてしまった。
いずれにせよ、千鶴は驚くだろう。彗太はガラス容器と銀スプーンをトレイに乗せて、隣の鶴見の家へ向かった。呼び鈴を鳴らすとすぐに、水色のワンピースを着た千鶴が中から出てきた。
「摂ちゃん!おかえりなさい。終業式終わったの?」彼女はいつもより明るい様子で玄関から飛び出した。「あ、何?それ」
「びわゼリー。どーだ、すごいだろ。こっちは龍で、こっちはウサギなんだぜ」彗太はゼリーの入った容器を千鶴に取ってみせた。
「わあ、すごい・・・これもおじさんが作ったの?」彼女は興味深そうに、あらゆる角度からびわの細工を眺めた。ガラスの器越しに、夏の日差しが千鶴の顔に落ちた。ひととおり見終えてから千鶴は、「食べるのがもったいないね」と彗太に言った。
「うん、でも、冷たいうちに食べたほうがおいしいぞ。鶴子はどっちがいい?」
「私は・・・」五秒ほど悩んでから、千鶴は龍のほうのゼリーを指差した。
ゼリーを片手に、ふたりは摂津家のベランダに向かった。
「うん、おいしい」
「ん、まあまあだな」味はいたって普通のびわゼリーだ。彗太はびわのウサギの周りをスプーンで突いた。千鶴はにこにことおいしそうに食べている。
「なんか、いいことでもあったのか?」彗太は尋ねた。彼が知る限り、千鶴はいつも少し悲しそうな顔をして、笑っているときもどこか暗い陰があった。だが今日は、いつになく明るくいきいきとしている。
「あのね、今日ね、近くの神社でお祭りがあるんだって」千鶴は弾むような声で答えた。「それでね、夕方になったら連れて行ってもらうって、おばあちゃんと約束したんだ」
「ああ」それでそんなに嬉しそうだったのか、と彗太は思った。
「浴衣着せてもらうんだよ。楽しみだな、はやく夕方にならないかな」
「今、鶴ばあは?」
「今はちょっと、おばさんたちとお出かけしてる。でも夕方には帰ってくるって言ってたよ」
千鶴は本当に嬉しそうだった。彗太はそれが何だか意外だった。彼はてっきり、千鶴のいつもの一歩引いたような態度から、彼女は鶴ばあに懐いていないのだと思っていた。
ゼリーを食べ終えてから、彗太の家の台所で、使った器をふたりで片付けていると、鶴見家のほうから電話の鳴る音が聞こえた。
「あ、私、ちょっと出てくる」千鶴はあわててベランダから飛び出し、鳴っている電話を取りに駆けていった。彗太がひとりで残りの片付けをしながら待っていると、五分もしないうちに、彼女はのろのろと彼のところに帰ってきた。
「はやかったな」
「うん・・・」
千鶴はぼうっとして、そのまま居間のソファーの上に体育座りでしゃがみこんだ。
「・・・どうした?」彼女の尋常でない様子に、彗太は心配になってソファーに駆け寄った。「さっきの電話、誰からだったんだ?」
彗太の問いに、千鶴は、おばあちゃん、と短く答えた。
「おばさんたちと急に出かけなくちゃいけなくなって、お祭りの約束、やっぱりだめになっちゃったんだって・・・」
「そうか・・・」
その声が、表情が、あまりにも哀れで、彗太は千鶴がかわいそうになった。泣き出しそうな気配はまったくないが、さきほどまできらきらとしていた彼女の瞳からは輝きが失われていた。彼は、何とかして落ち込んだ彼女を励ましてやりたかった。
「しょうがねーから、俺が連れってってやるよ、お祭り」
「摂ちゃんが?」
「そう、感謝しろよ」
素直に一緒に行こうとは言えない自分が憎かったが、千鶴は彗太の好意をわかってくれたのか、いくぶん嬉しそうな表情を見せた。
そのあと、彗太は友人の家に出かける用事があったので、六時に神社の前で落ち合う約束をしてふたりは別れた。
幼馴染の北浜の家に文野から電話が掛かってきたのは、少し日も傾きはじめた夕方の五時前だった。
「彗太くん、お母さんから電話だけど。何か急な用事みたいよ」北浜の母親が、受話器を持って二階の彼の部屋にやってきた。ふたりはちょうど、テレビゲームで対戦をしていたところだった。
「悪い、ちょっと中断」何の用だろう、と彗太は、突然の母親からの電話を不思議に思いながら受話器を取った。そもそも今日、北浜の家に遊びに行くことは特に伝えていなかったはずである。「もしもし?何だよいきなり」
反抗期特有の、ちょっとひねた感じで電話に出ると、彗太、と文野の焦った声が聞こえた。何かあったのだ、と彗太は直感した。
「探したのよ。家に電話しても誰も出ないから…でも、連絡がついてよかった」
電話の向こうは人の声が騒がしかった。どうやら、文野は勤務先の病院の公衆電話から掛けてきているようだった。
「何か、あったのか?」
「お父さんが倒れて、さっき病院に運ばれた」
彗太は血の気が引いた。文野の声はできるだけ平静を装っていたが、それでも動揺を隠しきれていなかった。
「今、伯母さんたちと一緒に市民病院にいるから、できるだけ早くこっちに来なさい。ひとりでちゃんと来られるわね?」
母の不安が、受話器を通じて彗太に伝わってきた。いつかこんな日がくるとはわかっていたが、それがこんなに急に訪れるとは思っていなかった。今朝まであんなに元気そうだったのに。
「とにかく、急いで。病院に着いたら、受付で『摂津ですが』って言うのよ。それでわかるから」