トロイメライ
「ん、これがどうかしたん?」
「ちょっと、見せて」
彗太は部屋の中に入って、今さっき大和が閉じた楽譜をもう一度開いた。この楽譜も相当古いもののようで、ページをめくると空中に小さな埃が舞った。
「それもピアノと一緒にもらってきてん。大正とか昭和とか、なんか古い唄がいっぱい入っとるみたいやわ」
「さっきのは?」
「さっきの?」
「いのち短し、ってやつ」
「ああ、そいつは確か」大和は彗太から楽譜を受け取ると、ぱらぱらとページを繰った。数枚めくったところで、上端が折られているページに行き当たった。
「ああ、あったあった。ページ折って印してあったから、試しに弾いてみてん。へえ、これ『ゴンドラの唄』っていうんか」
歌詞は知ってたけど、と大和はひとりごちた。彗太も、てっきり『恋せよ少女』が題名だと思っていたので、『ゴンドラの唄』というタイトルはなんだか意外だった。
「で、その唄がどうかしたん?」彗太があまりに真剣な顔で楽譜を見つめていたためか、大和は不思議そうに彼に尋ねた。
「この唄、昔、父さんがよく聴いてたんだ・・・」
そう彗太が言うと、大和はすぐに察したようだった。彼は、彗太の父親がすでに他界していることを知っていた。
「なら、その楽譜、摂ちゃんにあげるわ」
「え、でも、俺ピアノなんて」
「ええから、もらっときって。ちょっとぼろいけどなー」
彼がそう言うので、彗太はそのままそれをもらうことにした。音符は読めないが、題名と一緒に歌詞も書いてあったので、彗太は部屋に帰ってから改めてそれに目を通した。
いのち短し 恋せよ少女
朱き唇 褪せぬ間に 熱き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日の ないものを
「命、短し・・・」
彗太はベッドに寝転がって、歌詞の一節をつぶやいた。情熱的で、それも古風な恋の唄だ。なのに、彗太は何か共感とでもいえるようなものと、そして、ほんの少しの虚無感を感じていた。
「明日の月日は、ないものを」
どうして父がこの唄をよく聴いていたのか、今なら少しわかる気がする。彗太は仰向けになって天井を見つめながら、少し泣きそうになった。目を閉じると、父と歩いた故郷の町が脳裏に浮かんだ。
目を覚ますと、外はもう真っ暗になっていた。あわてて携帯電話の時計に目をやると、すでに夜の十時を過ぎていた。
「あー・・・」彗太は頭を抱えた。あのまま眠ってしまったのだ。階下からは住民らの騒ぐ声が聞こえた。もうこのまま朝まで寝てしまいたかったが、少し空腹感があったので、彗太はだるい身体を起こして、下の台所に何か食べ物を探しに行くことにした。
一階の談話室では、祥司と泉が飲み騒いでいた。
「おっ、摂津!お前も飲むかぁ?」
「ていうか、てめえそれ、俺のビールじゃねーか!」彗太は祥司の周りに転がっている空き缶を指して言った。ビール、正確に言うと発泡酒だが、数日前に彗太がスーパーで買ってきて、冷蔵庫で冷やしておいたものである。
「祥司お前、今度何かおごれよ!」祥司は適当にうんと言ったが、きっと明日の朝には忘れているのだろう。
「摂津くん、何しとるんー?」台所の冷蔵庫の前でごそごそやっている彗太に、談話室から泉が声を掛けた。
「何か食べるものがないかと思って。確か買っといた冷麺があったはずなんだけど・・・」
「あー、さっきそれ、食べてしもたわぁ」
「は?」
「あれ、もしかして摂津くんのやったん?ごめーん」
もしかしても何も、自分のでなかったら他人のものだろう。確かに、上下ジャージ姿の泉の横には、空になった冷麺のプラスチック容器がそのままで放置されている。彗太は呆れて物も言えなかった。
「あれぇ、摂津どっか行くんか?」
「・・・コンビニ」
「そんなら、ついでにチーかまとソフト裂きイカ買ってきてぇ」
「あ、俺も俺も。おでんの卵とジャガイモよろしく」
「おでんなんてまだ出てねーよ!自分らで行け!」
酔っ払いは放っておいて、彗太は寮の玄関を出た。外はまだ雨が降っていた。
「・・・ったく、あいつら」
彗太はぶつぶつ言いながら駅前のコンビニへ向かった。スパゲッティの麺ならまだ台所に残っていたが、今から火を使って調理をする気にはなれなかった。そもそもソースになるようなものが何もない。はぁ、と彗太は息を吐いた。少し頭が痛い。寝すぎたのだろうか。ついでに何かアルコールも買って帰ろう、と彼は思った。
コンビニの前にある傘置き場に傘を差して、店の自動ドアをくぐると、すぐにレジ横のおでん売り場に目が行った。冬にしか売られていないものだと思っていたが、ここはこの時期でもちゃんと置いているらしい。卵とジャガイモはあるだろうかと中を覗いていると、ふいに横から誰かに指でつつかれた。
「ん?」
「あ、やっぱり。今日はよく会うね」
鶴子、ともう少しで声に出しそうになるのを、彗太は寸でのところで抑えた。
「買い物?」
「ああ、うん・・・ちょっと、夜食を買いに」彗太は千鶴の姿を一瞥した。いつもとどこか違うなと思ったら、どうも薄く化粧をしているようだった。「バイト帰りか?」
「うん。今さっき終わって、電車で帰ってきたとこ。でも、よくわかったね」
「あ、いや・・・」
「私のバイト先、まかないが出ないから、お腹空いたんだけど、疲れちゃって・・・だから今日はこれが晩ご飯」彼女は手にもったおにぎりを見て、少し恥ずかしそうに笑った。「千ちゃんがいれば作ってくれるんだけど」
「今日はいないのか?」
「ううん、時々来てくれるんだけどね」
ここ最近、彼女の周りの人間関係についてはからずも詳しくなったが、この『千』という人物が誰なのかだけはさっぱりわからなかった。千鶴の話からすると、彼女とはかなり親しい仲のようだが、文学部にも大学にも、そのような名前の学生はいなかった。
「で、何買うの?」千鶴が小首を傾げて尋ねた。化粧をしているせいか、いつもより少し大人びて見えた。
「えーと、おでんと裂きイカとチーかまと、それから酒と・・・ああ、冷麺」
「じゃあ、先に清算済ませてくるね」
彼女はそう言うと、おにぎり二個を持ってレジへ向かった。彗太が終わるまで待っている、ということだろうか。彼はあわてて必要なものを手に取ると、レジの店員のところに持っていった。ソフト裂きイカはあったがチーかまはなかったので、かわりに魚肉ソーセージを買っておいた。
「おまたせ」
彼女は店のすぐ前の軒下で雨を避けて立っていた。そんなに急がなくてもよかったのに、と彗太を見て笑うと、千鶴は傘立てから傘を取った。
「あ、それ、俺のじゃないか?」
「え?・・・あ、ほんとだ、ごめん」
彗太は傘立てから『千』と書かれた傘を手に取ると、それを千鶴に渡そうとした。
「あは、こんどは私が間違えたね。これ新しいやつ?」
「ああ、なくしたから、こないだ新しく買ったんだ」
「へぇ・・・」
彼女は何気なく彗太のビニール傘の取っ手を見た。
「摂津・・・彗太?」
彗太の心臓が一度、大きく鳴った。ばれる、という気持ちと、気づいてほしい、という気持ちが入り混じっていた。不安と期待がこもった目で彗太は彼女を見た。