トロイメライ
梅雨入りのニュースを聞いたのは、いつも見ている朝の報道番組の天気予報だった。それ以前から大阪では連日雨が続いていたので、ああまだだったのか、と彗太は思った。数日前に百円均一で新しく購入したビニール傘には、この間の反省から、持ち手の部分に黒マジックで『摂津彗太』と書いて、さらにその上からセロファンテープを巻いておいた。
「せっかくやから、もっと違う色にしたらよかったのに。摂津、緑色とか好きやろ」
彗太の買ってきた白の透明ビニール傘を見て、祥司が言った。確かに、店にはピンクや青などさまざまな色のビニール傘が売られていたし、緑色も好きである。きっと他の色にしたほうが、間違えることも間違えられることも少ないだろう。だが、結局手に取ったのは前と同じ白の傘だった。彗太はその傘を図書館の傘立てに差して、二階の書庫に向かった。この時間なら、あそこにいるはずだ。
彗太の大学の図書館の自習スペースは、主に本館の一階と、それとは別棟になっている二階のコンピューター室にあるのだが、本館二階の書庫部分にも窓際に少しそのための空間が設けられていた。通路と窓辺の間という微妙な場所にあるため、そこを使う学生は少ないのだが、専門分野の図書棚が近いためか、彼女はいつもそこで自習しているようだった。
本棚の向こうからそっと覗くと、やはりいつもの場所で、彼女は背中を丸めて机に向かっていた。
(・・・猫背)
普段はそうでもないが、椅子に座ると彼女は姿勢が悪くなるらしい。弟の門馬もそうなので、彗太はすごく注意したいのだが、さすがにそれはしない。ただ、見ているだけである。
(何してるんだろ、俺)
彗太は、自分に背中を向けている彼女に聞こえないように小さくため息をついた。
彼女、鶴見千鶴は、文学部ドイツ文学科の二年生で、大学からは東に三キロほどはなれたマンションで一人暮らしをしている。大学では主に文学部棟か、学生会館に入っている購買部か、そうでなければ図書館にいる。部活動は特にしていないらしい。空き時間や週末には、隣町の結婚式場でウェイトレスのアルバイトをしていると、文学部の友人から聞いた。パンが好きなようで、昼休みになるとしばしば大学の近くのパン屋に現れては、二個か三個ほど買っていく。よく買うのは、値段の割に大きいくるみパンかぶどうパン、まれにあんぱんを買うこともあった。服装はスカートが大半で、清楚といえば清楚だが、同年代の女子大生と比べるとやや地味な感じがした。ちなみにあまり遠出はしないようで、服も日用品も、買い物はほぼすべて近所の大型スーパーで済ませている。
「摂津くんって、結構ストーカー体質やな」
そう言い放ったのは泉だが、正直自分でも否定ができない。おかげさまで、寮では最近何かにつけて、そのことで話のネタにされている。ジョナだけが「お好きなんどすね」と、―その笑顔が若干苦笑気味ではあるが―彗太の行為を誠実にとらえてくれる。
(好き、なのか?)
そう言われると悩んでしまう。彼らが言うような「好き」とは少し違う。好きか嫌いかと問われれば好きだと答えるが、それは恋愛感情からではない。ただ、ひどく懐かしいのだ。
「話しかければええやん。久しぶり、俺のこと覚えてるー?って」
大和はそう言うが、それができないから困っているのだ。時折思いがけなく千鶴と目が合うと、彼女はそのたび、挨拶代わりに軽く微笑みかけてくれるのだが、それは「傘のひと」ないし「タオルのひと」に対する以上のものではないらしい。つまり、彗太のことはさっぱり覚えていないようなのだ。自分で言うのも何だが、地元を歩けば小学校以来会っていない友人にさえ後ろ姿で自分だと気づかれるくらい、彗太の容姿は十年前から変わっていない。それとも、あの日々は千鶴にとって、記憶に残らないくらい些細なことでしかなかったのだろうか。何にせよ、これでは彼の一方的な片思いである。彗太はもう一度ため息をついた。
その時突然、千鶴が彗太のほうを振り向いた。
「あれ、おはよう」彼女は彗太に気づくと、もう昼をとうに過ぎているが、そう言った。こちらを向いたのは、単に落とした消しゴムを拾うためだけだったようで、椅子に座ったまま腕を伸ばしてそれを拾うと、また彗太に背を向けて机に丸くなった。
千鶴の向こうに見える二階の窓には、大粒の雨が打ちつけていた。天気が悪いせいで、外はもう夜のように薄暗い。中庭の外灯が何度か点滅したのち、オレンジ色から白色に輝きはじめた。窓の外が暗くなり、千鶴とともにガラスに映った自分の姿に気づいて、もう帰ろう、と彗太は思った。こんなことをしていても、何にもならない。
雨は好きだ。寮までの短い道のりを歩きながら、父もそうだった、と彗太は思い出した。保育園に通っていたころ、忙しい母に代わって迎えにくるのはいつも父だった。雨が降った帰り道にはいつも決まって、「雨々降れ降れ母さんが」というところを「雨々降れ降れ父さんが」に変えて唄っていた。
(そういえば、父さんもいつもビニール傘使ってたっけ)
彗太の記憶の中にいる父が持っているのは、大きな身体にそぐわない小さな安物のビニール傘だった。彼も一応芸術家の端くれなので、家の内装や彗太の学校の持物など、機能を損なわない程度に色々と凝った装飾を加えていたが、なぜか彼の使う傘だけはシンプルなビニール傘だった。大きくなってから一度その理由を尋ねたことがあったが、答を忘れてしまった。どうしても、思い出せないのだ。ふと道の脇に目をやると、道端に青紫色のあじさいが咲いていた。
寮の玄関扉を押すと、中から突然ピアノの音が聞こえてきた。
「え、ピアノ?」ピアノなんて、この家にあっただろうか。彗太は耳を澄ました。
いのち短し 恋せよ少女
あの唄だ、彗太ははっとなった。
朱き唇 褪せぬ間に 熱き血潮の 冷えぬ間に
音はどうやら、一階の奥、管理人室のほうから聞こえてくるようだった。ピアノのことはよくわからないが、なかなかうまい。彗太は引き寄せられるように管理人室の前まで歩いていった。部屋の扉は開けっ放しになっていた。
「大和、さん?」
中であの唄を弾いていたのは、意外にも大和だった。いつもと同じ、Tシャツに半ズボン姿で、この空間にはおよそそぐわない立派なグランドピアノに向かっていた。
「あ、摂ちゃん。おかえり」彗太の声を聞いて、大和は鍵盤を弾く手を止めた。「見てこれ、すごいやろ。今日、知り合いのところからもろうてきてん」そう言うと、彼は得意げに黒い木の塊を手で軽く叩いた。
「でもなー、これはちょっと、調律せなあかんな」
「ていうか、ピアノ弾けたんだな」
「ちょっとだけな」大和は答えた。「久々に弾きたくなって、無料で譲ってくれはるっていうからもらってきたけど、俺の部屋には置く場所なくてなぁ。仕方ないからここに置いたんやけど」
「って、ここ管理人室だろ。勝手に置いていいのかよ」というより、そもそも鍵の掛かった部屋にどうやって入ったのだろう。
「ええんちゃう?誰も使ってへんし」彗太の追及に、大和はあっさりそう答えると、立て掛けてあった楽譜をぱたんと閉じた。
「あ、その唄・・・」