トロイメライ
朝、部屋のカーテンを開けると、近隣のマンションや雑居ビルの間から久しぶりに青空が覗いていた。彗太は歯を磨きながら、片手で電気ケトルのスイッチを押した。早朝でまだ涼しいためか、外ではさかんに蝉が鳴いている。眠い目をこすりながら、彼はスプーンでインスタントコーヒーの粉をカップに入れた。
ニュースを見るためにテレビの電源をつけ、そのあとすぐにリモコンで音量を落とした。この寮の住民たちは夜はいつも騒がしいが朝はなぜかやたらと静かなので、朝早くから授業のあるときは、このように毎度気を遣うはめになる。彗太は沸かしたお湯をケトルからマグカップに注いだ。まだ頭がぼんやりしている。寝過ごすようなことはめったにないが、朝はあまり強いほうではない。本来ならもう小一時間は寝ていてもいいのだが、今日は一限目から実験で、しかも、先週の授業でじゃんけんに負けたがために準備当番を割り当てられ、いつもより早めに大学に行かなければならないことになっていた。彗太はあくびをかみ殺した。
身支度を済ませ、彗太は必要な荷物を持って部屋を出た。と同時に、隣の部屋のドアが開いた。
「あ」
中から出てきた住人と目が合った。しまった、と彗太は思った。そういえば、彼も先週じゃんけんに負けたのだ。もう少し早く出るか、あと五分時間を遅らせればよかった。
「お、おはよ。土居くん」
「おはよう」
彼はちらと彗太を見、無表情のままそう答えると、またすぐ興味なさげに視線をそらした。それ以上どちらから話しかけるわけでもなく、微妙に気まずい雰囲気のまま、ふたりは共に一階へと下りた。どうせ目指すところは同じなのだ。
寮から大学はゆっくり歩いても十五分はかからない。ゆえに、彗太も祥司らと同様に徒歩で通学しているのだが、彼の隣人も例外ではないようで、彗太は朝方の通学路を彼とほぼ真横に並んで歩いた。先程まで少し肌寒いぐらいだったのに、外に出るともうじりじりと暑い。大阪で夏を過ごすのはこれで二度目になるが、去年といい今年といい、南国といわれる長崎よりもひどく暑いように感じる。とにかく人と車が多いのと、海が遠く緑が少ないせいだと、彗太は思っていた。隣を歩く彼の様子を横目でうかがうと、暑さに弱いのか少しのぼせた様子で、かばんの中から取り出したハンカチで首筋を流れる汗を拭っていた。
彼とは同じ年に同じ大学の同じ学部に入学した、要するに同期である。おまけに何の偶然か、学籍番号と寮の部屋まで隣合わせなのに、彗太が彼について知っているのは土居大樹という名前と、北陸地方出身らしいということぐらいだった。というのも、おたがい隣に住んではいるが、この一年と数ヶ月のあいだ、本当に数えるほどしかしゃべったことがないのだ。土居は、他の住人のように談話室に集まって馬鹿話をすることもないし、どうやら食事も部屋でつくってひとりで済ませているらしかった。それでも彗太はまだましなほうで、薬学部の二年生の大半は、いまだに彼の苗字を「どい」と読み間違えている。正しくは「つちい」である、と本人ではなく大和から聞いた。
早朝のキャンパスはまだ人がまばらでひっそりとしていたが、運動部がグラウンドで朝練をしているらしく、遠くから部員らの掛け声が聞こえた。その中を、ふたりは薬学部棟に向かって無言で歩いた。部屋の前で挨拶を交わして以降、さっきから一言も話していない。彗太は一緒に学校に来たつもりだが、もしかしたら土居のほうはそう思っていないのかもしれない。そう思えるほど、彼は彗太の存在をまるで無視したように黙している。彗太は思い切って、今日も暑いな、と話を振ってみたが、うん、と一言返ってきただけだった。
「いやいや、自分ら朝早うからおおきになぁ。おつかれさん」
実験室の準備を整えたあと、阪神タイガースの虎マークが中央に入った扇子をあおぎながら、担当教授の桃谷がふたりに対してにこやかに言った。いかにも関西人といった感じの明るくおおらかな人物なのだが、授業もすべてこてこての関西弁でおこなうものだから、彗太をはじめとする非関西圏出身の学生らは、入学当初は非常に頭を悩まされた。もっとも、始終関西弁で授業をおこなうのは彼だけではないのだけれども。
「俺、ちょっと掲示板見てきます」
準備が思っていたよりはやく終わってしまったので、彗太は桃谷にひとこと言ってから、実験室を出ようとした。そこに、俺も、と土居が続いて腰を上げた。
「掲示板?」教室を出て、大学の施設の割には狭い階段を下りながら、彗太は土居に尋ねた。彼は最初、いつものように無表情でうなずいたものの、しばらくしてから思い直したように軽く頭を振り、ぼそりと呟いた。
「桃谷先生と、通訳なしでふたりきりになると、困るから」
一瞬、彼の言葉の意味がわからず、彗太はぽかんとなった。が、すぐにその意を解して吹き出した。
「通訳、確かに。そうだな」
土居も冗談などを言うのだと、彗太は少々意外に思いながら、彼とともに一階の掲示板へと向かった。一限目の授業がある学生らが、吹き抜けのロビーにちらほらと姿を見せはじめていた。掲示板はそのロビーの隅にあった。
「うわ、期末課題の掲示かよ・・・」彗太は顔をしかめた。もうそんな時期か、と彼は思った。土居のほうはというと、涼しい顔でレポートの期日や試験の日程を手帳に書き付けている。彗太もそれらを書き写そうと、白衣のポケットにメモ帳を探していると、ふいに後ろからとんと肩を叩かれた。振り向くと、片手に分厚い辞書を抱えた千鶴がいた。
「あ、よかった合ってた」彼女は彗太の顔を見ると、いくぶんほっとした表情をみせた。 「白衣着てたから、遠目だとわからなくって。でもすぐ会えてよかった。今から実験?」
彗太と隣にいる土居を見比べながら千鶴は尋ねた。
「あ、ああ・・・」
昨晩の泉のことがあったので、彗太は思わず、その姿を上から下まで凝視してしまった。こうして『千鶴』としてあらためて目にすると、声や顔つきなどは十年前からさほど変わっていないようだった。背もあれからあまり伸びなかったのか、こざっぱりとした身なりの彼女は、割と小柄な彗太から見ても華奢な体つきに思えた。
「・・・私、何か変なところある?」
「え?あ、いや、そういうわけじゃ」
「あは、実は今日寝坊しちゃって。寝癖そのままなんだ」
千鶴は下ろした黒髪の先を指ですくって、そこにくるくると巻きつけた。別に寝癖なんかないじゃないか、彗太はそう思いながら、胸の辺りまで伸びた彼女の髪を見つめた。昔のおかっぱ頭のイメージが強かったので、長く、ゆるいウェーブのかかった髪に、自分の知らない千鶴を感じた。性格も、以前より少し明るくなったかもしれない。
「あ、それはそうと、昨日はありがとう。はい」そう言うと、千鶴は、辞書を抱えていないほうの手に持っていた紙袋を彗太に差し出した。
「ん、何だこれ?」
「借りたタオルと、お菓子。気を遣わせちゃうから、私はいいって言ったんだけど、千ちゃんが」
「ゆきちゃん?」また『ゆき』だ、と彗太は思った。友達だよ、と千鶴は重そうな辞書を持ち直して答えた。
「千ちゃんが持っていけって。だから、もらっておいて。ただのチョコレートだけど」