トロイメライ
紙袋の中には、箱に入った外国製のチョコレートと、昨日彼女に貸したタオルがきちんと折りたたまれて入っていた。まさかお礼をもらうとは思っていなかったので、彗太はどぎまぎしてしまった。
「それじゃ、実験がんばって」
それで用が済んだのか、隣の土居にも軽く頭を下げてから、千鶴は薬学部棟を後にした。彼女の姿が見えなくなってから、彗太はチョコレートの礼を言いそびれたことに気がついた。
「今の子・・・?」土居が彗太に尋ねた。正直、声を掛けられるまで彗太は彼の存在を完全に忘れていた。
「ああ、ええと・・・泉、一階に住んでる佐野泉、あいつの文学部の一個下の後輩らしい。ってことは俺らと同学年か」言われてみれば、今の彼女について知っているのは本当にそれぐらいだった。名前は、と土居はさらに続けて訊いた。
「鶴見、千鶴だけど」
そう答えると、彗太は少なからず奇妙な感じがした。千鶴が今の言葉を聞けば、名乗ってもいない赤の他人がなぜ自分の名前を知っているのか、と思うだろう。さきほどの様子からいっても、彼女は彗太のことにまったく気がついていないか、あるいはまるで覚えていないようだった。こんな風に懐かしさを覚えているのも、彗太のほうだけなのだ。
「ちづるちゃん・・・」
「え?」
彗太のそんな複雑な心境とは裏腹に、土居はいつもの無表情のまま、ただ頬をほんのりと赤く染めて、彼女が去っていった方向をぼうっと見つめていた。
その日、土居は実験中いつになくミスを連発した。心ここにあらずといった感じで、桃谷や他の学生も、めずらしいことがあるものだと、いつもの冷静な土居との違いに驚いていた。
「ご、ごめん・・・」
「かまへん、かまへん。失敗なんか誰にでもあるって」
「せやって土居くん、気にせんでええよ」
土居は授業後、彗太を含む実験の班のメンバーらに申し訳なさそうに謝った。彼らは不思議に思いつつ、土居に励ましの言葉をかけていたが、その中において彗太は内心気が気でなかった。彼だけが、土居の異常の要因を察していた。