真夜中の彼女
利香は一応、同好会に所属していた。部室は無いのだが、部室棟の一階にはそんな彼女たちのささやかなたまり場があった。玄関脇の、不釣り合いな程大きな鏡が設置されたスペースだ。
そこには、先客がいた。
制服に身を包んだままイヤホンを付け、全身でビートを刻んでいる。
利香は階段の淵にそっと腰を下ろすと、その後ろ姿を見つめた。全身を余すところ無く使って、複雑なリズムに見事にシンクロさせている。音は全く聞こえて来ないが、その動きが音を外していないのは一目瞭然だった。
利香は知らず知らずのうちに声を忘れ、そのムーブに見入っていた。
しばらくそうしていると、その背中がこちらを振り返った。
「おや珍しい。こんな時間に。」
イヤホンを外し、さっきまでの動きが嘘のように涼しげに語りかけてくる。
これが利香の幼馴染、斎藤綾女だった。
「何か今日は早く起きちゃってさ。いつもこの時間から練習してるの?」
「うん。これやんないと一日始まんない。」
綾女はそう言って、楽しそうに笑った。利香は相変わらずのダンスマニアっぷりに呆れながら、せめて、と苦言を呈した。
「着替えてからにしなよ。パンツ丸出しだったよ。」
「見せパンだし、着替えるのメンドイ。それにこの時間だと、誰もいないし。」
汗一つかいていない綾女の素肌を見て、利香は成程と納得した。自分があんな振り付けで踊ったら汗にまみれるところだが、綾女にとっては朝飯前というところらしい。スゴイやつだ。
「それよりどうしたの、こんなに早く学校に来てさ。何かあった?」
「あ~。特に何がどう、ってわけじゃないんだけど…」
「教えてよ。もう行動で示しちゃってんだから、隠すことないじゃない。」
利香が言い淀んでいると、そんなことを言って来た。時間通りに登校しただけだというのに、そこまで読まれてしまうとは。ダンスのレベルの高さといい、恐ろしい女だ。
利香は肩をすくめた。
「氷堂さん、っているじゃない」
「ああ…あの綺麗な人ね。いっつも一人でいる」
綾女の顔が少し曇り、怪訝そうな表情を浮かべた。彼女も利香と同様に、氷堂さんにはあまりいい印象を抱いていないようだ。
「昨日、あの人に会ったんだ。」
「へえ。」
「ちょっと話したんだけど、意外と楽しかったよ。」
「うそお?!」
綾女は心底驚いたようだった。
「ちょっと待って、あの人って日本語喋れたの?つかあんた、共通の話題とか皆無じゃない?」
「いや、ほんの数秒で終わっちゃったから何も話してないに等しいよ。でもさ、お高くとまってるとかって感じじゃなかったよ。」
「へぇ…何か面白そう。詳しく話してよ。」
どうやら綾女の興味をひくことに成功したようだった。
利香は満足げに頷くと、ことの次第をかいつまんで説明した。
「何だ、本当に何にも話してないんじゃない。つか散歩って何?夢遊病か何かじゃないの?私はパスだわ。」
綾女は辟易した様に言った。
「だろうね。」
「何か、期待して損した気がする。」
綾女はパッと後ろを向くと、再び鏡に向きなおった。練習を再開するつもりだろう。思ったとおりの反応だ。綾女は基本的には自分本位の人間で、人に興味を抱かない。教室の中とかだと最低限の社交性は発揮するが、それ以外は無愛想なものだ。
しかし先の彼女の反応は大いに参考になった。
家でのテンションのまま氷堂深冬に話しかけようもんなら、クラス中の注目を集めてしまうだろう。はてさてどうしたものか…。
本より低血圧な利香は、そのまま始業のチャイムが鳴るまでぼんやりし続けた。
「えー、では席替えを始めるからクジ引いて。」
といったおざなりの行事が行われていたようだ。
教室に入ってみると、利香の机は窓際に移動させられていた。思わず周囲の顔を確認してしまうが、どれも見飽きたものばかりだ。そうそう都合よく事が運ぶハズも無かった。
「あんた今、私の顔見てため息ついたでしょ。」
「目だけはいいみたいね。両目1.2だっけ?」
「机運んでやった恩人に対してそれか。」
「そりゃ…。どうも。」
利香は相手の顔すら見ずに言葉を返した。相手もそれ以上は突っ込んで来ない。今回も後の席になったクラスメイトの桜とは、そんな関係だ。
しかしこれから友人の輪を広げようとしているのに、こんなハードボイルドな振る舞いでいいものなのか。利香は少し不安になって背後を振り返った。桜はJELLYを広げて机に視線を落としていた。
「何かいいのある?」
「いや、どーも今年の夏ものは路線が合わないや。私もそろそろギャル系卒業かもしんない。」
「十年早いでしょ。」
桜ほどアルバが似合う女はこの教室にはいない。それをわかった上で言っているのだろうが、最近の桜は刺激に飢えているようだった。卒業とかそういう類の単語を発することが多い。
しかしそんな桜の事情は、利香の知ったところでは無かった。唐突に話を切り替える。
「それよりさ、このクラスの図書委員って誰だったっけ?」
「は?」
「いや、去年の読書感想の本まだ返してなくってさ。そろそろヤバいかな…と思って。」
「あんたみたいな女をね、maggotって言うのよ。」
桜は雑誌をバタンと畳むと、見飽きたのか鞄の中に乱雑に放り込んだ。態度と同じく、面倒くさそうな調子で続ける。
「確か…氷堂でしょ?」
桜の言葉に、利香は思わず心の中で驚きの声を上げた。イメージ通りとは正にこれだ。まさかカマかけて一発目で的中するとは。
「つか、そのくらい自分で返しに行きなよ。間違ってもあの子に渡して済まそうなんてしないでよね。」
「何で?」
「そりゃ、面倒臭そうじゃない。あの子気強そうだし。」
「ああ…。」
成程。発している声とは裏腹に、利香は一人で納得していた。どうやら氷堂深冬は桜に一目置かれているようだった。まさかこんな事で桜に釘をさされるとは思いもしなかったのだ。
「桜、氷堂さんのこと何か知ってるの?」
「それ綾女が去年やって断られてた。つか、普段の態度見てれば分かるでしょ。誰ともツルまないしさ、何か嫌味言われても澄ましてるし。」
そんな事があったとは知らなかった。さっき綾女と会って氷堂さんのこと話したときにいい顔しなかったのは、そんな事情があったのか。
利香はふーん、と適当に相槌をうった。
利香が音のとれない男以上にこの世に必要無いと思っているのが、本だった。そんな物の巣窟である図書室などは、虫酸が走る。おまけにそこは身動きの一つでもとれば警報が鳴るんじゃないかと言うくらい、静まり返っている。常にヒップホップを聞いて無いと落ち着かないという綾女に比べれば随分マシだが、利香とて静かな場所が嫌いな人類の一員だった。
そんな場所へ自主的に向かおうとする日が来るとは、自分でも信じられなかった。
ただ深冬と話がしたいだけだというのに、何で放課後にわざわざこんな所まで来なければならないのだろう。一日の授業が終わるまで教室で馴染みの連中と喋って時間を潰してしまった自分が、恨めしかった。
「Damn’t!」