真夜中の彼女
その日、利香は気分が落ち込んでいた。大学生の彼氏に連れて行ってもらったクラブで、いまいちノリ切れなかったのだ。DJの腕が悪かったわけじゃない。選曲は悪くなかったし、つなぎも非常に上手かった。いつもの様にフロアに躍り出て全身で音に乗ろうとした。その後が、何故か上手くいかなかったのだ。
音は取れていた、と思う。しっかり聴けていたし、身体もついていった。
けれど心だけはいつまでも乗り切れず、気分は一向に上がらなかった。
結局利香はせっかくの土曜日のデートを早めに切り上げて、家路につくことになった。
「今日はありがと。」
駅まで送ってくれた彼氏に柔らかなキスをして、すっと背中を向け歩きだす。いつもなら見送ってくれる彼を一度は振り返ることにしているのだが、今日はそんな気分にはなれなかった。いったん歩き出すと、まるで背後の視線に背中を見せつけるかの様に足が早まった。
独りになりたいんだ。
今の自分をそう分析した利香は、足の向くままに夜道を歩いた。
気がつくと、自分の家路とは反対方向にある公園に向かって、歩き始めていた。大した場所もない自分の家の周辺では、向かうとしたらここぐらいしかない。本当はひとつ手前の駅で降りたかったのだが、いつもと様子の違う自分が彼氏の目の前でそんな行動をとったら何て言われるかわかったものではなかった。
「別に嫌われたって、構わないのにね…。」
従順な女になり下がってしまったような気がして、そんな自分にあきれてつい一人ごちる。
ブレイクビーツをかけながらBMXに熱中している一団の傍を通りすぎ、利香は公園の中のなるべく人気のない場所を目指した。いつもなら見入ってしまう彼らのパフォーマンスにも、今日はさしたる関心が持てなかった。今はただひたすら、静けさが恋しかった。
しばらく夢遊病者の様に放浪した後、利香は幸いにもカップルのいない噴水にたどりつくことができた。この時間帯には一組くらいいちゃついてるのがいてもよさそうなものだったが幸いにも、見える範囲にはそういった微笑ましいのはいない。
噴水の淵にそっと腰掛け、フウとため息をついた。
こういうのは、これっきりにしよう。
こんな気分になるなんて自分のキャラに合っていないし、彼氏にも何か悪いことをしてしまった。久し振りに日曜日の午前を回る前に帰って就寝前の両親と弟を驚かせてやろうかとも思ったが、その考えは力なく笑って済ませた。
もう少し、こうしていよう。
せっかくの一人だ。
利香は何も浮かんでこない自分の心を弄ぶかの様に、足をゆらゆらと揺らした。今日のことは帰って一晩寝たら、さっさと忘れればいい。一日くらい、頭に響くベースラインや身体に染みついたビートを忘れても罰は当たらないだろう。明日はゆっくり昼まで寝て、月曜からはまた学校だ。
そんな思いに浸っていた利香は、不意に人の気配を感じて顔を上げた。
そこには、まるで闇夜から滲み出てきたかの様に全身真っ黒な女が立っていた。背中の中ほどまである流れる様な黒髪は眉の上で綺麗に切りそろえられ顔に影を落とし、黒色のワンピースからは浮き立つ様に白い手足が細く伸びている。利香は突然現れたこの世のものとは思えない雰囲気の持ち主を目の前にして、カラ回りがちだった頭が完全に停止した。
「こんばんは。」
女の薄い唇が友好的な笑みを浮かべて底冷えのする様な挨拶をしてきたとき、利香はたまらずに悲鳴を上げそうになった。
そんな利香の様子に気づいたのか、女の様子が少し変化した。
「綾瀬さん…よね?」
自分の名字を呼ばれ、利香はようやくその声に聞き覚えがあることに気づいた。真白になっている頭の中を何とか探り、その声の記憶を辿る。
「ひ、氷堂さん…?」
極度の緊張状態にあったせいで、声がかすれた。けれど今の利香はそんなことに気づく余裕も無く、驚きに流されたまま、暗さにまぎれてよく見えなかった相手の顔を覗き込んだ。
長い睫毛の下から静かに見つめ返してくる漆黒の瞳を認めて、利香はようやく、クラスメイトの氷堂深冬だということに気がついた。いっつも教室で独りでいる、凄く美人だけど暗くて愛想の無い女。そんなイメージの深冬が、まるで珍しいものでも見るかの様に利香を見つめていた。
「驚いた。綾瀬さんもこんな所に来るのね。何してるの?」
純粋に興味本位で聞いている声色だ。利香は頭の隅でそんな分析をしている自分に驚いたが、まだショックが抜けきっていなかった。いつもならこんな女無視してやるのに、つい興味にかられて聞き返してしまう。
「…人待ち。あんたこそ何やってるのよ?」
無意識のうちにありもしないことを言い繕うあたりは、我ながらさすがだ。
深冬は一歩下がり、利香と距離を開けた。彼女にしてみれば何気ない動作だったのだろうけど、利香にはその配慮がありがたかった。雰囲気に気圧されてしまったなんて、相手には絶対に気取られたくなかったから。
「ふうん。私は散歩。」
深冬の言葉は淡々としていて、心地良かった。
いかにもワケありげな言葉に聞こえたが、果たして嘘なのか本気で言ってるのか判断がつかない。利香は深冬の口からどんなことが聞けるのか、興味が湧いた。
「散歩?」
「うん。たまにこの時間帯に散歩するのが、私の趣味。」
利香はからかう様な口調で言った。
「危なくない?」
深冬の目が利香を一直線に見据えて来たが、すぐに視線が逸れた。
「全然。」
さしたる感慨もなさそうに言いきる深冬を、利香は興味深げにじっと見つめた。驚きだった。あの氷堂深冬が、こんなに喋る女だったとは知らなかった。元よりこんな場所にいるのも驚きだったがそれを飛び越えて利香は、今の深冬との何気ないやりとりを面白いと感じていた。そんな自分に驚いていた。
「さようなら。」
どうやら深冬にとっては、もう会話はおしまいらしい。そんな風に観察しながら、利香はさっさと背を向けて歩み去っていく深冬の背中を見送った。その姿は現れたときを彷彿とさせ、滑るようにして闇の中に溶け込んでいった。
何て愛想の無いヤツ。おまけにわけわかんないし。けれど今は何故か、その淡泊な態度が心地よかった。
「また明日。」
利香は人気のなくなった空間に向かってそう呟くと、なめらかに立ち上がった。
もう、日曜日になったはずだった。
月曜になった。
制服に身を包み学校へと向かう利香の足取りは、心なしか軽かった。低血圧で朝が苦手な利香にとって、これは珍しいことだ。
いつもより早く家を出ていく利香に、母親は気味が悪そうに声をかけてきた。
「お願いだから事故に巻き込まれないでね。」
はいはい、と背中越しに返事した自分の声は、たしかに明るかった。
こういうのを浮かれている、というのだろうか。
遅刻常習犯の自分が始業時間にゆとりを持って、しかも猫背にならずに登校しているなんて我ながら信じ難かった。この妙な気分はけれども、長続きしなかった。学校が近くなって登校前の同級生の人波を目前にすると、気持ちは一気に冷え込んだ。
辟易しながら教室に向かう流れに逆らい、校舎わきの部室棟へと向かう。
音は取れていた、と思う。しっかり聴けていたし、身体もついていった。
けれど心だけはいつまでも乗り切れず、気分は一向に上がらなかった。
結局利香はせっかくの土曜日のデートを早めに切り上げて、家路につくことになった。
「今日はありがと。」
駅まで送ってくれた彼氏に柔らかなキスをして、すっと背中を向け歩きだす。いつもなら見送ってくれる彼を一度は振り返ることにしているのだが、今日はそんな気分にはなれなかった。いったん歩き出すと、まるで背後の視線に背中を見せつけるかの様に足が早まった。
独りになりたいんだ。
今の自分をそう分析した利香は、足の向くままに夜道を歩いた。
気がつくと、自分の家路とは反対方向にある公園に向かって、歩き始めていた。大した場所もない自分の家の周辺では、向かうとしたらここぐらいしかない。本当はひとつ手前の駅で降りたかったのだが、いつもと様子の違う自分が彼氏の目の前でそんな行動をとったら何て言われるかわかったものではなかった。
「別に嫌われたって、構わないのにね…。」
従順な女になり下がってしまったような気がして、そんな自分にあきれてつい一人ごちる。
ブレイクビーツをかけながらBMXに熱中している一団の傍を通りすぎ、利香は公園の中のなるべく人気のない場所を目指した。いつもなら見入ってしまう彼らのパフォーマンスにも、今日はさしたる関心が持てなかった。今はただひたすら、静けさが恋しかった。
しばらく夢遊病者の様に放浪した後、利香は幸いにもカップルのいない噴水にたどりつくことができた。この時間帯には一組くらいいちゃついてるのがいてもよさそうなものだったが幸いにも、見える範囲にはそういった微笑ましいのはいない。
噴水の淵にそっと腰掛け、フウとため息をついた。
こういうのは、これっきりにしよう。
こんな気分になるなんて自分のキャラに合っていないし、彼氏にも何か悪いことをしてしまった。久し振りに日曜日の午前を回る前に帰って就寝前の両親と弟を驚かせてやろうかとも思ったが、その考えは力なく笑って済ませた。
もう少し、こうしていよう。
せっかくの一人だ。
利香は何も浮かんでこない自分の心を弄ぶかの様に、足をゆらゆらと揺らした。今日のことは帰って一晩寝たら、さっさと忘れればいい。一日くらい、頭に響くベースラインや身体に染みついたビートを忘れても罰は当たらないだろう。明日はゆっくり昼まで寝て、月曜からはまた学校だ。
そんな思いに浸っていた利香は、不意に人の気配を感じて顔を上げた。
そこには、まるで闇夜から滲み出てきたかの様に全身真っ黒な女が立っていた。背中の中ほどまである流れる様な黒髪は眉の上で綺麗に切りそろえられ顔に影を落とし、黒色のワンピースからは浮き立つ様に白い手足が細く伸びている。利香は突然現れたこの世のものとは思えない雰囲気の持ち主を目の前にして、カラ回りがちだった頭が完全に停止した。
「こんばんは。」
女の薄い唇が友好的な笑みを浮かべて底冷えのする様な挨拶をしてきたとき、利香はたまらずに悲鳴を上げそうになった。
そんな利香の様子に気づいたのか、女の様子が少し変化した。
「綾瀬さん…よね?」
自分の名字を呼ばれ、利香はようやくその声に聞き覚えがあることに気づいた。真白になっている頭の中を何とか探り、その声の記憶を辿る。
「ひ、氷堂さん…?」
極度の緊張状態にあったせいで、声がかすれた。けれど今の利香はそんなことに気づく余裕も無く、驚きに流されたまま、暗さにまぎれてよく見えなかった相手の顔を覗き込んだ。
長い睫毛の下から静かに見つめ返してくる漆黒の瞳を認めて、利香はようやく、クラスメイトの氷堂深冬だということに気がついた。いっつも教室で独りでいる、凄く美人だけど暗くて愛想の無い女。そんなイメージの深冬が、まるで珍しいものでも見るかの様に利香を見つめていた。
「驚いた。綾瀬さんもこんな所に来るのね。何してるの?」
純粋に興味本位で聞いている声色だ。利香は頭の隅でそんな分析をしている自分に驚いたが、まだショックが抜けきっていなかった。いつもならこんな女無視してやるのに、つい興味にかられて聞き返してしまう。
「…人待ち。あんたこそ何やってるのよ?」
無意識のうちにありもしないことを言い繕うあたりは、我ながらさすがだ。
深冬は一歩下がり、利香と距離を開けた。彼女にしてみれば何気ない動作だったのだろうけど、利香にはその配慮がありがたかった。雰囲気に気圧されてしまったなんて、相手には絶対に気取られたくなかったから。
「ふうん。私は散歩。」
深冬の言葉は淡々としていて、心地良かった。
いかにもワケありげな言葉に聞こえたが、果たして嘘なのか本気で言ってるのか判断がつかない。利香は深冬の口からどんなことが聞けるのか、興味が湧いた。
「散歩?」
「うん。たまにこの時間帯に散歩するのが、私の趣味。」
利香はからかう様な口調で言った。
「危なくない?」
深冬の目が利香を一直線に見据えて来たが、すぐに視線が逸れた。
「全然。」
さしたる感慨もなさそうに言いきる深冬を、利香は興味深げにじっと見つめた。驚きだった。あの氷堂深冬が、こんなに喋る女だったとは知らなかった。元よりこんな場所にいるのも驚きだったがそれを飛び越えて利香は、今の深冬との何気ないやりとりを面白いと感じていた。そんな自分に驚いていた。
「さようなら。」
どうやら深冬にとっては、もう会話はおしまいらしい。そんな風に観察しながら、利香はさっさと背を向けて歩み去っていく深冬の背中を見送った。その姿は現れたときを彷彿とさせ、滑るようにして闇の中に溶け込んでいった。
何て愛想の無いヤツ。おまけにわけわかんないし。けれど今は何故か、その淡泊な態度が心地よかった。
「また明日。」
利香は人気のなくなった空間に向かってそう呟くと、なめらかに立ち上がった。
もう、日曜日になったはずだった。
月曜になった。
制服に身を包み学校へと向かう利香の足取りは、心なしか軽かった。低血圧で朝が苦手な利香にとって、これは珍しいことだ。
いつもより早く家を出ていく利香に、母親は気味が悪そうに声をかけてきた。
「お願いだから事故に巻き込まれないでね。」
はいはい、と背中越しに返事した自分の声は、たしかに明るかった。
こういうのを浮かれている、というのだろうか。
遅刻常習犯の自分が始業時間にゆとりを持って、しかも猫背にならずに登校しているなんて我ながら信じ難かった。この妙な気分はけれども、長続きしなかった。学校が近くなって登校前の同級生の人波を目前にすると、気持ちは一気に冷え込んだ。
辟易しながら教室に向かう流れに逆らい、校舎わきの部室棟へと向かう。