真夜中の彼女
利香は思いっきり悪態をつくと、意を決して図書室の戸を引き開けた。綾女に誘われて初めてフリーサークルで踊った時ですら、こんなに緊張しなかったはずだ。利香はためらいがちに2,3歩中へと踏み出した。
おいおい、マジかよ?!
生まれて初めて入るそこは、まさに異空間だった。壁一面が本棚で覆われ、それだけでは満足しなかったのか所狭しと本棚が並べられている。どのラックにも窒息しそうな勢いで本が敷き詰められ、今にも暴動が起きそうだった。どんなクラブのセキュリティーだって、ここまで邪険にぎゅうぎゅう詰めにはしないだろう。
利香は大航海時代の奴隷市場でも見るような目つきでそれらを横眼に通り過ぎ、カウンターのある方へ向かっていった。ところどころに設けられた椅子と机で何やら得体の知れない書物を読み耽っている人間は、とても同じ生物とは思えなかった。
氷堂深冬は、そんなエイリアンどもの一員だった。
利香は彼女の座っている机に近づき、そっと声を絞り出した。限りなく嫌悪感に包まれながら。
「あの、ちょっといい?」
利香は不審人物に職質をかける警官の気分がよく分かった。きっと彼らもこんな心理状態なのだろう。見なかったことにしたいが、そうもいかないというジレンマ。
手元の書物から顔を上げた氷堂深冬は、不思議そうな表情をしていた。
「綾瀬さん。」
何でこんなところに?と声に出さずに問いかけて来る。それは利香自身が抱えている疑問でもあった。アンタこそそんな得体の知れないモン読んで一体何企んでるんだ?と問い詰めたい衝動を、何とか堪える。
お互い無言になってしまった。
と、氷堂深冬は手持ちの書物を丁寧に鞄にしまった。その動作があまりに静かで上品だったので、利香は彼女が図書室の出口にスタスタ歩き出すまで見守ってしまった。
扉を引き開けるガラガラと言う音にはっとなり、利香はその後に続いた。図書室を出れたことにとりあえずホッとしていると、クスクスという笑い声が響いた。
「一体どうしたの?綾瀬さんがこんな所に来るなんて。」
氷堂深冬は、思わず怖気立ってしまう程に口元を歪めていた。その微笑の温度と来たら、真冬の古井戸の方がまだ温かみがあるように思えた。
「いや、昨日何してたのか気になってさ。」
己の発言の直後に、利香は後悔した。まさかこんなストレートに要件を伝えてしまうとは。
「昨日も言ったじゃない、ただの散歩。」
氷堂深冬は足音も無く歩きだした。
利香は思わず半歩遅れて、その後に続いた。
「ホントに?」
「本当も何も、隠すことなんて無いよ。静かな時間に静かな場所にいたいだけ。」
利香はふ~ん、と相槌を打った。ひょっとして図書室にいる連中はみんなこんなヤツラなのかもしれない。
「そんなことわざわざ確かめに来たの?」
「まあね。」
利香は少し興味を失いつつ、歩調を緩めた。距離が開いていく長い黒髪を見つめながら、自分は一体何をやっているのだろうと自問する。こんなわけのわからない同級生に、何を期待していたのだろうか。からかい甲斐すら無い深冬の反応は、今朝から抱えていた不思議な興奮を冷え込ませるには十分だった。
その割に、利香は踵を返すこともなくそのまま歩き続けていた。今から部室棟の一階に行って綾女と一緒にダンスの練習をするのは、億劫な気がした。いつもなら心踊る放課後のひと時だというのに、目の前を歩く女のせいでとんだ気分になってしまった。
恨みがましい視線を目の前を行く背中に向けたところで、利香はふと、かける言葉すら見つからないこの沈黙が苦ではないことに気付いた。そう言えば、普段の登下校中に耳を覆っているはずのヘッドホンは、愛用のipodと共に鞄の中に眠ったままだ。大音量で鼓膜を震わせるバス音の不在を寂しく思わないのは、新鮮な感覚だった。
「それじゃあ、私はこっちだから。」
校門をくぐったところで目の前を行く背中がくるりと利香を向き、つつましやかな口を開いた。
一応、一緒に帰っている認識はあったんだ。さっきから一言もしゃべらないからてっきり忘れ去られているのかと思った利香は、思わず笑みを浮かべた。と同時に、疑問も感じた。深冬が向かおうとしている先には、オフィス街が広がるばかりだ。この学校に通う生徒は通常、駅前までは同じ方向に帰るものだった。
「あれ、あんたの家って、そっち?」
利香の何気ない質問に対して、深冬の切れ長の眉が僅かにひそめられた。それは利香が知る限り、深冬が見せる初めての感情だった。
「なに、まだからかい足りないの?」
呆れた声で問いかけて来る深冬。
ああもう充分、じゃあね、と告げて踵を返そうとした利香は、思わぬ動揺に喉を詰まらせた。声が出せなくなったばかりか、口元から笑みが消え表情まで固まってしまったのがわかる。
別に、深冬から非難されて、うろたえてしまったのではない。そもそも、深冬の口調に相手を害する響きは無かった。利香はただ、からかうためだけに一緒に帰っているのだと思われたことがショックだった。けれどからかっていたのは半分は本当だから否定は出来ない。
「そりゃ、あんな時間にうろうろしていたらちょっかい出されても仕方なくない?」
自分の口をついて出たセリフの幼さに、利香は呆れかえってしまった。
深冬の真珠の様な双眸に失望が浮かぶさまを目にしたくなくて、利香は目をそらした。クスリと笑う微かな音を聞いて、自分の行動の正しさを悟った。
「ところで、綾瀬さんは毎晩デートなの?」
「毎日ってわけじゃないよ。」
別に男と遊び呆けていると思ってもらって構わなかったのだが、深冬だけは例外な気がした。話題を切り換えてくれたことへの、ささやかな礼のようなものだ。かといって、自分のことを晒け出すつもりは無いが。
「駅前で練習してる方が多い。」
深冬の顔に疑問が浮かぶのを見て、ダンスの、と付け加えた。
感心する様な表情へと変わっていくのを見て、利香は少しくすぐったい気分を味わった。
「今夜も?」
どんなことを切り出されるのだろうか、と思いながら利香は首を横に振った。
「じゃあ、11時にあの噴水前に来てくれない?」