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夢一匁

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 次の朝、真咲は見合いのことでまた父親と言い争いになった。その成りゆきで、つい言わなくてもいい言葉を言ってしまったことが事の発端だった。
「女は家庭に入るものだと、いつ誰が決めたのですか?」
「昔からそうなんだ。口答えするな」
「女は仕事ができないなんて、そんな馬鹿なことがあるはずもありません! 私は──」
 そこで言葉を切る。いまここで勢いに任せて言ってしまったら、自分の強い思いが伝わらない気がしたのだ。けれど発した言葉は戻ってはくれない。案の定、父親は真咲を見返した。
「真咲、何を考えている? 女の身で仕事を持つとでも言うのか。そんなものは無理に決まっているだろう。下らないことを考えている暇があったら見合いのことを考えておけ」
 無情としか思えぬ乳の言葉に、真咲の中で何かが壊れた。
「下らない……女が仕事を持つことが、下らない? なぜそんな風に差別されるのか、私には分からない!」
 怒りでそれ以上言えなかった。身体が震えてうまく唇を動かせない。罵声を浴びせることすら悔しくてできなかった。その場にいたくもなくて、真咲は屋敷を飛び出した。学校なんて頭になく、ただ自分が無意識に求めるほうへ走り続けた。
 ──はらりと幽玄に舞う薄紅の花びらと、その中に佇む桜の姿を。

 今日も青が広がる空に、桜の花びらが穏やかな春の風に揺れている。その場所へ無我夢中で走り切った真咲は騒ぐ心臓に手を置き、けれど荒い息を整える間もなく下を向く。無性に悔しくて、けれど言い返すだけの力がなくて、真咲はただ逃げた。いまの自分は、両親の庇護なしに暮らしていくことすらできない。甘やかされて育ったと自覚がある分、余計に思う。
 だんっ、と太い幹を力任せに叩く。握った拳から伝わる痛みがじわりと染み込んだ。でもそれだけでは物足りなくて、さらに手を傷付けるように幹にぶつけていく。時折、軽やかな花びらがはらはらと目の前を散っていったけれど、見ても涙が込み上げるだけで救いにはならない。
 何度打ち付けたのか、幹に拳を当てたまま泣き崩れるようにしてしゃがみこんだ真咲の背中に、穏やかな声が届いた。
「……真咲、さん?」
 無意識に求めていた声だった。なぜかその声を聞きたくて、助けてほしくて、気が付けば桜の身体にしがみついていた。そうすれば、頭の中にわんわんと響いていた雑音が消える気がした。桜は戸惑いながらも真咲の方に遠慮がちに手を乗せて上から声を降らせる。
「綺麗な手なのに傷付けちゃだめですよ」
 桜は懐からハンカチを取り出すと、血が滲んでいるほうの手にくるくると巻きつけていく。その上で、まだ声を殺して泣いている彼女の頭を優しく撫でた。
「仕事を持つことはどうして許されないのですか? 私はただ……」
 すがりついたまま、またずるずるとしゃがみ込みそうな真咲を何とか支える。きっちりと後ろに結んだ桃色のリボンと桜模様の着物が風に揺れた。
「真咲さん、落ち着いて下さい。僕でよかったら話を聞きますから」
 桜は真咲を樹の根元へと座らせた。心地いい春の風がすり抜けて、二人の間のしばしの沈黙を埋めてくれる。しばらくそうしたのち、真咲はぽつりと話し始めた。
「──妹がいたんです」
 それは、一瞬聞き逃してしまうような声だった。
「いた、のですか?」
「……ちょうど桜の散る頃に、撫子(なでしこ)……妹は息を引き取りました。まだ、十になったばかりだったのに」
「………」
 桜は黙ったまま、俯いた真咲の横顔を見つめた。かけるべき言葉が、彼には分からなかったのだ。
「……すみません。僕には貴女にどんな言葉をかければいいのか全く分からないのです」
 はらはらと舞い散る桜に手を伸ばし、それを掴む。そしてぎゅっと握った手を見つめ、桜は言った。真咲は、桜の飾らない素直な言葉に少しだけ心が落ち着いて、首を横に振った。
「約束したんです、撫子(あの子)と。お医者様になって、必ず助けるからって──けれど、あの子は私が大人になる前に逝ってしまった……だから」
「……交わした約束を叶えようとしているのですね」
 医者になることを──、と桜は言っていた。真咲の夢を否定せず、ただ受け入れて聞いてくれることに、堪えた涙が零れる。
「でもお父様は私の夢を下らないと……」
 言いながら顔を歪める。桜は遠慮がちに真咲の頭に手を置いて、するりと髪を撫でた。
「──……他人から見れば、真咲さんの夢はたった一匁にも足らないことかもしれません。それでも真咲さんにとって何にも代えられない夢なのでしょう? なら、手放すことなんてないはずですよ」
 手を伸ばして掴んだ桜の花びらをそっと真咲の掌に握らせて桜は言った。真咲はそれをぎゅっと握ってかすかに頷く。優しい言葉がすうっと心に染み渡り、強張っていた身体がほぐれていくのが分かった。
「ありがとうございます……」
 諦めたくなんかなかった。けれど所詮女は家に入るものだと言う慣習がしがらみとなって真咲の夢を阻む。それに逆らえるだけの力を持たない子供の自分が無性に悔しかった。だからこそ桜の言葉が心から嬉しかった。嬉しくても涙が出ることを真咲は初めて知ったのだ。
 桜は指で真咲の涙を拭いながら、ふと目を伏せる。
「言えない辛さは、僕にも分かります。僕はこれでも一応華族で……、長男であるがゆえに、家督を継ぐ役目を負いました。でも僕は父の跡を継ぐ気なんて全くなかったんです。でも……」
 考え込むように言葉をいったん切る。真咲は口を挟まないまま、桜の次の言葉を待った。
「僕には貴女のようにはっきりした夢がなかった。ただぼんやりと、本に囲まれながら過ごしたいと思っていただけで、学者になりたいだとかそんなことを夢見たわけではなかったんですよ。じゃあ何ができるのかと父に言われて気付いたんです。僕には、何かを犠牲にしてまで望む夢がないことを」
「……だから跡を継ぐのですか? それで後悔はしないのですか?」
 そこで桜は初めてふっとおかしそうに笑った。日だまりのようなあたたかい笑顔に、真咲は思わず目を奪われる。
「ええ、しません。と、たったいま決めました。……あ、でも」
「でも?」
「いえ、何でもないです。ところで真咲さん、学校に行かずにこちらに来たのですか?」
 いまさらではあったが真咲は確かに学校へ行かずここへ来たのだ。
「お父様と言い争いをしたまま飛び出してしまったので……」
「ご両親も心配されているでしょう。とりあえず鳴屋まで送ります」
 父は心配というより怒っているだろう。けれど桜の表情が真剣で、何となくそれを否定しがたかった。黙ってしまった真咲をどう捉えたかは分からなかったが、桜は立ち上がって手を差し出した。真咲は迷い、けれど「行きましょう」と言った桜の優しい口調に促され、力なくこくんと頷く。そして差し出された手に自分を重ねて立ち上がる。桜は真咲の手を握ったまま大桜を背にして裏山を下る道についた。
 真咲は少しひんやりとしている大きな手に安心感を覚えると同時にどきどきと高鳴る心臓に困惑していた。理由が分からないまま、暑くなる胸を押さえて桜と一緒に歩く。裏山を下りて少し道なりに歩けば黒塗りの馬車が一台停まっていた。
「……馬車」
作品名:夢一匁 作家名:深月