夢一匁
「お帰りなさいませ、真咲お嬢様。旦那様がご心配なさっておいでです」
「………そう」
使用人たちが迎えてくれた玄関で、真咲は早速うんざりした表情を見せた。ため息をつきながら荷物を手渡し、黒の編み上げ靴を脱ぐ。脱ぎ終わるころ、もう一つ甲高い声が届いた。
「真咲! こんな遅くまでどこに行っていたの? さ、こちらへいらっしゃい」
母親は真咲の返事も聞かないまま、ぐいぐいとその腕を引っ張ると無駄に広い洋間に連れて行く。大体、"こんな遅くまで"とは言うが、まだ日すら落ちてはいない。一人で出歩くことは確かにいい顔はされないが、こんな風に言われる謂れはないはずだ。そう思って真咲は再び深いため息をついた。
「真咲か。どこに行っていた?」
洋間の一番上座には会いたくない父がいて、その父は真咲を問いつめる。
「満開の桜を探しに行きました。あの子が好きな花ですから」
父がその言葉に対して二の句を告げないと知っている。言う自分も辛いけれど、それで咎められないのなら何でもいい。それに、見知らぬ男性と話していたなどと知られれば、この厳格な父親は自分を屋敷の中に閉じ込めてしまうだろう。それだけはなんとしても避けたかった。黙ってしまった父をちらりと見上げ、けれどこれ以上この場に留まるのが嫌でくるりと背を向けた。
「真咲」
動いた真咲に、我に返ったらしい父が呼び止める。反抗したい気持ちを抑えつつも顔を向ければ、いつもの厳格な顔に戻った父がいた。
「お前の見合いの日取りを決めた。相手は──」
「お見合いなど嫌ですと言ったはずです! お父様はどうして私の言葉を聞いてくださらないのですか!」
真咲は激昂した。このせいで家に帰りたくなかったのだ。けれど、その怒りにさらに油を注がれる。
「真咲! お父様に向かって何と言う口の利き方ですか。謝りなさい」
「黙っていてください、お母様。ええ、お母様はいいでしょうとも。お父様とはお見合いではないのですもの。私の気持ちなんて、お母様にはお分かりにならないでしょう! 私は絶対に嫌です。お見合いなどいたしません」
真咲の言葉に母親が傷付いた顔をしたけれど、真咲は気付かない振りをした。胸が痛まないわけじゃない。けれど真咲にだって心があるのだ。譲れないことも、受け入れたくないことも。それが許されるかは別問題ではあるのだが。
嗚咽が喉まで出かかる。哀しくて、止まった涙がまた滲んで、それを見せるのが嫌で真咲はそのまま部屋に向かって走った。
「……きらい……」
バタン、と勢いよく扉を閉めると、ずるずると背をもたれかけたまましゃがみこんだ。面と向かっては言えない言葉が零れだす。てのひらで顔を覆えば、我慢していた涙が頬を伝って零れ落ちた。
「きらい……お父様も、お母様も。たすけて……だれか」
ふっ、と桜の残像がよぎる。今日見た、あの大桜の。否、それはきっと真実ではない。真咲の脳裏をよぎったのは、薄紅の花びらの中で微笑む由岐桜の姿だ。
「……桜さん……」
会ったばかりなのに、どんな人かもほとんど知らないのに、どうして桜の姿が浮かぶのだろう。その理由がまだ分からないまま、ただ彼の声と姿を求めていた。