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夢と現(うつつ)

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 しかしな『その指針に従えば法的に咎(とが)められない、罰っせされることはない』という考えだけがあまり前面に出てしまうことには反対だ。いかに良くできた法でも所詮はひとが作るもので全てがカバーできるものではない。日常的に遭遇する現場で瞬時に判断するにはその指針から外れることが多いはずだ。からだを投げ出した若い母親の言動を瞬時に裁く指針など有るはずが無い。
 俺は自身の良心を物差しにしている。その物差しにはしっかりとした根拠がある。立派なさじかげんだと自負しているよ」こう言って時雄が腕時計を眺めた。九時が近い。二時間以上も飲んでいるがあまり酔わない。量も知れている。ふたりとも歳を感じていた。
 
 時雄が隣の食堂から何やら運んできた。ふたり分の食膳だ。
「看護婦の絹さんが毎日食事の世話をしてくれる。今夜は気を利かしてお前の分も有る。鯵(あじ)の干物などはうまいぜ。さと芋の煮付けもいけるぞ」それを肴(さかな)にまたふたりは飲み始めた。
「その物差しの話しを続けてくれないか」と信二が促した。
「ここでは爺(じじ)婆(ばば)の患者が多い。この手で葬(おく)った患者がいくつもある。名前は忘れたが、ひとの死を三つに分類したフランスの哲学者がいる。
 一人称の死(自分の死)二人称の死(近親者の死)三人称の死(他人の死)この三つだ。最近よく言われるターミナルケアなどで患者の人権が注目されるが、忘れられがちなのが二人称の死、家族だ。残された家族には『死後』がある。このことを無視してはいけない。
 日本には古き良きしきたりが有った。都会ではすっかり消え失せたが、生活の共同性だ。葬式は地域の組織が取り仕切ったものだ。遺族は悲しみに没頭できた。四十九日や一年の喪に代表されることは、この間遺族は周りに不義理をしても許されるという環境が準備されていた。
 きのうまで元気だったひとが朝目覚めると死んでいたというケースも有れば、何年も寝込んでさんざん家族の手を煩(わずら)わせて死んでいくケースも有る。事故も含めて前者は家族にとっては『何もしてやれなかった』という悔いが残る。逆に後者は恨(うら)み言さえ出てくる。
 この中間がいいんだよ。そうだな、寝込んで一ヶ月くらいは家族にも看病してあげる期間が有ればベストだと思う。患者を看取るだけが医者の仕事ではない。家族にも納得できる『死後』を演じさせてやるのも大切なんだ。
 治療を続けても、この患者は間も無く死亡するという現実は医者には解る。そんな患者に死期を延ばす治療だってできる。寝込んだまま植物状態で長く生きると想定できる患者も医者には判断できる。そんな患者には適度な時期に緩(ゆる)やかに向こう岸に誘(いざな)ってやる治療だってできるんだ。
 死は自分だけのものでは決してないんだよ。その周りの家族にも影響するんだ。そのことを考慮した治療こそが俺の『根拠あるさじかげん』なんだ。前者、後者ともに自身の良心に従えばだれに疑われることもなく施(ほどこ)すことができる。
 ただし、完治する可能性がある疾患には命を護るために全霊を傾けることは勿論のことだ」信じられる家族の関係をあやふやなものにしないためだと時雄は訴えた。
 そういえば、最近の葬儀は遺族が手配をする。そして遺族の役割りを演じることに周りは期待する。生前に自分の死後をシナリオにするひとも増えてきていると時雄の話しをきいて信二は思った。
「感動できる話しだよ。先生はここへ来なかったらその根拠は見出せなかったと思うかい?」
「たぶんな。ここには古き日本のしきたりがまだ残っている。となりへ味噌や醤油を借りに行くなんてお前の周りに有るかい?ここには身を寄せ合い、助け合って生きる暮らしの習慣が今でも日常的に繰り返されている。そんな環境が無かったらできなかっただろうな」時雄の言い方には妙に説得力があった。信二はただうなづくだけだった。
「ところでいつまでおられるんだい?」
「うん、あさってには帰ろうと思う」
「そうかそれはいい。友、遠方より来たる。明日は休診にしよう。なぁに心配はいらん。最近では携帯電話という文明の力がある。急患があれば絹さんが呼んでくれるさ。小さな島だが案内するよ。まだ話しも有るしな。もらい物の焼酎やウイスキーが山ほどある。さぁ、飲み明かそう」
 時雄に促されふたりはピッチを上げた。そしてそのまま毛布をかぶって寝てしまった。

      ワーカーホリック
 翌朝ふたりは早い時間に目覚めた。まだ六時前だ。外は真っ暗で窓が激しくうなっている。冬将軍が怒っているようだ。
「この時期、ここではよくあるんだ。今日は荒れそうだな。案内もできんかもな」と時雄はひとり言のように話しながらお茶を入れてくれた。
「こんな日はここのひと達はどうしているんだい?」
「うん、たいていは家でじっとしている。フェリーだって欠航だ」
「明日は帰らなきゃいかんのだが大丈夫かな?」心配げに信二が聞いた。
「だめならずらせばいいじゃないか。一日ふつか、帰りが遅れても体制に影響は出ないだろう。もっとここで俺としゃべれと自然が時間を作ってくれたと思えばいい」
「ひとごとだと思って簡単に言うなよ。仕事があるんだ」
「それがどうした。仕事のために帰りたいのか?人生では予定が狂うことはよくある。むしろ思い通りいかないことの方が多いはずだ。そんなとき、これはチャンスだとは思えないか?帰りたいが帰る術が絶たれた。それならそれが回復するまで待つしか無い。その間は今を楽しもうなんて考えはできんかな」
 ちょっとおどける様な仕草で時雄が言った。信二は困ったような表情になった。
「そんな習慣は持ち合わせていないよ。俺の検査や放射線治療を待っている患者がいるんだ。這(は)ってでも帰りたい」
「実は俺も同じだ。『俺でなければ、おれがいないと』と責任感に燃える。俺たちの世代が陥る悪しき習慣だとは思わんか?」
 なんだ、同じか。ちょっと安心したような信二の表情を見て時雄が続けた。
「俺でないと、と思う自負が悪いとは言わんがちょっと違うぞと思うときがある。確かに仕事でもそうだが、前触れも無く組織の中枢のある人物が欠けると相当の混乱が生じるだろう。だけどな、それは一時的なものじゃないかな。だって会社の役員などが突然死んだらどうなるんだ?どうもなりはしない。瞬間的に慌てる場面はあっても必ずだれかが跡を引き継ぐ。その度に会社が潰れたなんて話しは聞いたことが無い。
 中小企業の社長が急死して事業継続ができなくなったということは有るかも知れんが、それだって残された者たちが最善と思う処置をするだろう。お前だって病気もすれば急用ができるときも有るだろう。そんな時はちゃんと誰かが代わりを努めてくれるよ」
 そんなに簡単には考えられないと信二は思った。自分や家族を護ることが主目的だが、収入を得るべき職場で自分が欠けても影響が出ないなどと考えたことも無い。自分が辞めると言えば周りは必死になって引き止めるはずだ。またそれくらいでないと価値がないではないか。自分にはその価値があると信二は思っている。そのことを時雄に信二が訴えた。
 その後、ふたりの会話はおよそ次ぎのように展開していった。
作品名:夢と現(うつつ) 作家名:笠井雄二