夢と現(うつつ)
今ホスピスで働き終末期を迎えた患者に接し、そして自分はもうすぐ定年を迎える。残された限られた命の時間を知ったからこそ示してくれる言葉や態度が有る。それは患者だけでは無い。看護する家族も俺たちもなんだ。定年という自分の節目に接したからかも知れないが考え込むことが多くなった。そんなときに不器用とも思える先生を思い出したんだ」その後、信二はホスピスでの近況を話した。
ゆっくりと飲みながら、ときにはうなづくような仕草をみせて時雄は聞いていた。
「なるぼど、確かに心に訴えるものが有る。今度は俺がしゃべろう。まずはここへ来た経緯からだ」
それによると、原島は『ハルシマ』と読ませる。そう言えば乗船場でもそう呼んでいた。近くの大島と長島を合わせて土地のひとは三島と呼ぶ。面積は一平方キロメータに満たない。人口約一五十名、およそ四十五世帯が住む。学校は小学校の分校がひとつ有るだけ。気候は厳しく、冬には玄界灘からの冷たい季節風に晒(さら)される。
これといった産業は無く、わずかばかりの田畑と漁業で生計を建てている。若者は島から出て行き高齢化が進んでいる。そういう意味では主な収入源は年金だろう。過疎化が進んでいる。
「それでも俺が来た十年ほど前には倍くらいのひとがいたよ。無医地区に医者を派遣する団体から紹介されてやって来たんだが、それこそ地の果てに来たような気がした。それでも正義感に燃えて、俺はこの島の将来に役立つ医療をやろうと意気込んでいたし、特別な存在では無く日常的に人のすぐ横にある本当の医術が見つかるはずだと夢を持っていた。事実、島民は大歓迎をしてくれた。
専門は外科だがここでは何でも診(み)る。内科、小児科、眼科、耳鼻科なんかは当たり前、歯科医まがいのこともする。歯ぐきが腫れ上がって顔の形が変わるまで我慢してやって来る患者にはメスではじいて膿を出したり抜歯だってやったよ。
最新鋭とは言えないが一応の設備はある。レントゲンや超音波検査、簡単な手術もできる。まぁ、お産以外は何でもやったな。夜中だろうが早朝だろうがお構いなしに訪ねてくる。ここにはひと時代前の医者と患者の関係も在(あ)る。治療費が払えずに野菜や魚を置いて行くこともある。
初めの三年くらいは充実していたよ。やっと温もりのある医療に出会えたと感じた。しかし女房は馴染めなかったんだろう。退屈で単調な生活に背を向けて出て行ったんだ。
こんなこともあった。年末を控えた深夜にひどい高熱にうなされた乳飲み子を抱えて若い母親が飛び込んできた。四十度近い高熱で肺炎寸前だった。もう少しで手遅れになるところだ。一晩預かった。与えた抗生物質が効いたのか翌日には熱も下がった。一週間ほどの通院で完全に回復したよ。
その間、母親からは苦しい生活の実態を聞かされた。幼なじみと結婚して子供を授かったが出産後すぐに旦那は都会へ出て行き居所も分からない。収入も無く、頼りにする親元もぎりぎりの生活。生活保護を申請したらしい。そんな事情で当時五千円ほどの治療費は払えないと言う。俺は『いつでもいいよ』と言って帰そうとしたが母親は申し訳無いから何か手伝わせてくれと言った。丁重に断り、心配しなくてもいいよと言い聞かせたところ渋々帰って行った。
その夜のことだ。母親ひとりでやって来た。もう十二時が近い。『子供は?』と尋ねると『実家に置いてきた』と言う。
『こんな時間に何の用事か?』と問い質(ただ)した。
『子供は先生に助けてもらった。こんな貧乏人でも分け隔(へだ)て無く接してくれた先生の気持ちが涙が出るくらい嬉しい。どうしても治療費が払いたい。お礼がしたい』と俺の前に横たわり『からだで払う』と言うのだ」
「それでいただいたのかい?」
「茶化すなよ。説得して帰したよ。でもな彼女はそのことを悪とは捕らえていないんだ。真摯な目線で訴えるんだよ。
俺は思ったね。ひとは崖(がけ)っぷちに立たされたたときには限られた選択肢の中から最悪の選択をしてしまうだろうとね。彼女の場合は善意が底辺に有るのでよけいに辛くなったよ。『窮鼠(きゅうそ)猫を噛む』というがどうしようも無く自殺なんかを最終章に選ぶ場面もきっと有るんだろうね」
時雄はするめをかじりながら続けた。
「前置きが長くなってしまった。ここまで訪ねて来てくれたお前の悩みについてだが、なぜなのか理解できない。平凡かも知れんが大事なくやって来たんじゃないか?そりゃあ歳は取るさ。定年にもなるだろう。でも明日の食事(めし)に困っている訳でも無いし、家庭も円満にいっている。将来の不安が多少は有ってもまずまずじゃないのか」
「いや、そうなんだ。取り留めて不満がある訳ではない。しかし夢が有ったはずなんだ。少なくとも人生の半分以上は過ぎ去った。死を前にして接したそのひとの話しや行動ほどの感慨が自分には無い。半世紀を振り返るときそんなドラスチックな経験は無いよ。
だからといって激動の将来を期待している訳ではないんだ。そう遠くない時期にやって来るであろう最終章にさっき話したようなひとに感動を与えるような態度が取れるか自信が無い。何も無いんだ。ただがむしゃらに働いてきただけだよ。確かに周りには家族も友達もいる。傍(はた)から見れば平和そうに見えると思うよ。けれどもどこか寂しいんだよ。いつか先生だって医者としての資質に疑問を持ったじゃないか。先生の現実を見れば何か答えめいたものが見つかるんじゃないかと期待している」
自分でもよく解らないんだと言いたげな信二の表情だった。
「確かに医療の限界に嫌気が指して真の医術を自身に課してここへやって来たよ。頼られるというのは嬉しいものだ。そりゃ前も頼られていたがここには医者は俺しかいない。気に入らんと言って病院を代えることはできん。オンリーワンで頼られてそれを裏切らないように患者と肌で接することには充実していたよ。三年を過ぎたころ、それはマスターベーションにすぎないことに気が付いた。
それはお医者さんという領域でしかないんだ。最先端の医学を駆使して、優秀なスタッフと一緒になってひとりの患者を救うといった現実はここには無い。一介の開業医と何も変わらない。手に負えない患者は設備の整った大きな病院へ転送する。患者と真摯に向き合って裏切らないという原点に従順な自己満足に過ぎんのだよ。それに浮かれていたが故にかみさんにも逃げられてしまった。
けれど逃げ出さないでここにいるのには訳が有る。己の裁量で患者の苦しみを和らげてやったり、そっと無理なく自然な形でおくってやることもできる。完璧ではないが考えていた治療ができるんだ」
ちょっと待てと信二が遮(さえぎ)った。
「それは法には触れないのか?終末期の定義は明確ではないが少なくとも治療を継続する価値が無いと判断するにはかなり高いハードルが有るのではないのか?」
「実際のところよく解らん。やっと厚生省や日本救急医学会などがそのガイドラインをまとめようとしている。それはそれで大切なことだし、どんどんやってもらいたい。