夢と現(うつつ)
「死期を目前にした母子の話しなんか身に詰まされるわね。戦場での狂気も実話だけに説得力があるし、きっと同じようなことがいくつも有ったんでしょうね」薄っすらと涙さえ浮かべながら佳代子は聞いている。
「お互いタイプは違うけれど医療の現場にいると命に纏(まつ)わる体験はよくあるわね。でもあなたの話しを聞いていて単に病気や死期だけの問題ではないと思うの。そりゃあ誰でも健康でいたいだろうけど、いざ病(やまい)や老いに接したときそれまでの生き様を振り返ったりするわよね。
うちの病院に院長の運転手でそうね、六十代後半のひとがいるの。鈴木さんて言うんだけれどね。お昼休みなんかよく詰め所にやって来ておしゃべりしていくの。
この前、『加藤さんの旦那は(お前が女房で良かった)なんて言ってくれたことなんかあるかい?』なんて聞くのよ。私が不思議な顔をしていると『夫婦なんて狐と狸のだましあいみたいなもので、この野郎と思っても代わりがいないからな』って、ちょっとピント外れなことを言ってた」
その後座り込んでしゃべっていった。鈴木の話しはおおよそ次ぎのような内容だった。
鈴木は琵琶湖の東側、長浜市の農家に次男として生まれた。子供ごころに終戦の玉音放送は記憶にある。貧しかったが、家が農家であったため粗末ではあったが食べることの不自由はしなかった。
中学を出て大阪の小さな紡績工場へ就職した。当時の岸総理大臣が唱える『国民所得倍増計画』に踊らされて経済成長率は毎年十パーセントを越えていた。
造れば売れた。売れたら儲かった。鈴木の勤める紡績工場も好調で毎年大幅な昇給があった。島根から集団就職してきた女房と結婚したのが二十歳ごろ。汚い社宅ではあったが世間並みの生活ができ、三人の子供も設けた。四十歳になったころ会社は倒産した。
この国を支えて来た繊維産業は主にアジアの後進国からの輸入攻勢に遭(あ)い、その多くが縮小や廃業に追い込まれた。
小さな町工場であった鈴木の勤める紡績工場などはひとたまりもなかった。満足な退職金ももらえずに放り出された。何の技術も無い鈴木は唯一自信の有る体力に頼って長距離トラックの運転手になった。
「がむしゃらに働いたよ。後から追いかけてくる団塊の世代に負けまいといつも激しい競争の中で働きまくった。女房も共働きで支えてくれた。五十五歳で定年になり、その退職金を頭金にして小さなマンションを買った。その後も運送会社の配車担当として嘱託社員で六十歳まで働いた。
その道中で女房が死んだ。五十三歳だった。胃癌が見つかった時は医者から末期だと告げられた。担当医は『からだ中、癌の巣』だと言った。半年もはもたないだろうとも付け加えた。告知したよ。辛かった。
苦労ばかり掛けてきた。旅行など一度だって連れていったことも無い。感謝の気持ちは有っても照れくさくて優しい言葉を掛けたことも無かったさ。死期が知らされて残りの時間も分かったからこそ言える言葉も有るだろう。逃げずに向かい合おう。そう決めたんだよ。
あいつは襲いかかる激痛に耐えながら、俺の手を握ってこう言ったよ。『おとうさん、ありがとう。あなたが私の旦那で良かった。先にいくけれどごめんなさい』
俺は声を出して泣いたよ。そして僅かな限られた時間の中で何でもしてやろうと思った。晩酌が好きだった。隠れて盃(さかずき)一杯飲ませてやった。『おいちいかい?よちよち』会話も自然に赤ちゃん言葉になった。
食べたいというものは何でも買ってきて与えた。『たーんとおたべ。あちゅいよ』ひとくち食べては休み、またひとくち食べる。その度に嬉しそうな顔をしてくれる。もっと早く、もっと元気なうちにしてやれば良かったと申し訳ない気持ちでいっぱいだったよ」
暖めた牛乳を与えていたある日の夕方、妻は鈴木に告げた。
「おとうさん、もういいよ。いかせて」
それを聞いた鈴木は「そんなに死に急ぐなよ。もうちょっとかみさんやっててくれよ」と言ったものの、生かされているだけの現状は鈴木にも辛かった。
主治医に会って楽にしてやって欲しいと相談した。
「残念ですが今の日本では、医者は治療を止めたり毒物を使ったりすることはできません」
鈴木は関係する資料を読み漁(あさ)った。特に『尊厳死』や『安楽死』についてはまだ世間に広く理解されていなかった。
このふたつは日本尊厳死協会ではしっかりと定義付けされている。
『尊厳死』は病気が不治かつ末期になったとき自らの意思で無意味な延命治療をやめて自然な形で最期を迎えること。
一方『安楽死』は医師などが薬物を使い患者の死期を早めることを言う。
「俺は考えたよ。あいつを苦しみから救ってやれるなら、安楽死も尊厳死も同じだと思った。何が法律だ。この苦しさから救えないような法律なんかくそ食らえだ。
最期を自身で決めるなら自殺でもいいではないか。それこそあいつを救えるならば俺は殺人だってやるぞ。何もしてやれない苛立(いらだ)ちと申し訳無さが俺の心まで荒れさせていたよ」
妻は自分で死ぬことすらできない。ならばこの手で楽にしてやりたい。
身内の苦しみをそばで看(み)て自身も介護に疲れて親を殺したという痛ましい事件があちこちで起きている。尊属殺人や嘱託殺人として裁かれる。
しかし、一方では安楽死も尊厳死も認めないでは片手落ちではないかと鈴木は思った。法を犯してまで妻を楽にしてやっても妻は決して喜ばないだろう。
「俺は考え込んだよ。『罪』にならない『死』の定義付けはできないだろうか?無意味な延命を拒み安らかに逝きたい、逝かせたいとは本来、自然な考えではないのか?
思い悩んでいるうちに別れのときが来たんだ。今夜が山だ、朝は迎えられないと直感した俺は医者に直談判をして入浴の許可をもらった。介護のひとと一緒になってあいつを風呂へ入れてやった。
あいつは軽かった。こんなに痩(や)せていたのかと思うと涙が止まらなかった。それでもあいつが心地良さそうな表情をしたときは、浴槽に身を乗り出してまわりを気にせず抱きしめてやった。
『ありがとう。おとうさん』と蚊が鳴くような声で礼を言ってくれた。病室に戻って間も無くあいつは『眠りたい』と言って目を閉じた。それが最後だったよ」
『死にたい』と訴えた妻に鈴木はそれを叶(かな)えてやることができなかった。しかし妻はぎりぎりまで生きてくれた。そのことには僅(わず)かながら救われる気がした。
「加藤さん、かみさんが生きていたら『お前が女房で良かった。最高の人生だったよ』って胸を張って言えるよ」こう言って鈴木は佳代子の前で笑ってみせた。
「あなたはどっち?」佳代子が尋ねた。
「おまえは?」信二が返した。
お互いを伴侶として褒(ほ)め称(たた)えることができるのか、ふたりとも沈黙してしまい、そのままお茶を濁して終わってしまった。
憎みあっている訳ではない。空気のような存在だが無くては困る。健康で平準な生活を送っている間は革(あらた)めて表現はできないだろう。
普段から感謝の念で過ごしている夫婦も多くあるだろう。