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夢と現(うつつ)

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 世論は気ままに動く。『衣食足って礼節を知る』と故事は教える。衣食が足りなくなったら世論はどうするんだろう。どこかの隣国が日本の海岸線にミサイルでも打ち込んだら、それでも交戦権を否定し続けることはできるのか?
 少子高齢化の中、福祉が支え切れなくなったら延命治療はおろか終末医療すら放棄して高齢者が動けなくなくなったら、それこそ安楽死をさせてしまえと世論は発言するだろうとは言い過ぎだろうか?
 故事は『貧すれば鈍す』とも教えている。信二は苦笑いをしたが「笑っとれんな」と表情を引き締めた。

       育児
 クリスマスイヴ、一人の女性が夫に付き添われて入院してきた。山本亮子 二十九歳、肝臓癌 余命わずかの診断。
 移送元の病院からデータは一緒に来るが、一応初期の検査が行われた。レントゲンやCTなどを信二が受け持った。
 この若さでここへ送り込まれるのは気の毒だなと信二は思った。
 翌日の午後、彼女の病室を通りがかったとき、中から婦人の怒るような泣き方の泣き声が聞こえてきた。
 夕方、見舞いを終えて帰る主人と玄関で出くわした。信二も仕事を終えて帰るところだ。
「山本さんのご主人ですね?」と信二が呼び止めた。振り返った主人に「私はここの放射線技師の加藤です。失礼とは思いますがお時間があればそこの喫茶室でお茶でもご一緒しませんか?」と信二が誘った。
 腕時計に目をやって主人は「ええ」と同意してくれた。暖房のきいた喫茶室でコーヒをふたつ頼んだ後に信二が切り出した。
「ご主人はこのホスピスがどんなところかご存知ですよね」主人はうなづいた。
「率直なところまだお若い奥さまがこのような所へ入院されるのはとてもお気の毒に思います。おせっかいかも知れませんがしゃべれば楽になることもあります。差し支えの無い範囲で話してみませんか?」どんな事情が有ったのですかという表情で信二が尋ねるような仕草をした。
「残念です。妻は三月(みつき)ほど前に長男を出産しました。初産です。その直後から黄疸が観られ、初めは産後の後遺症かと思っていたのですが検査の結果、肝臓癌と診断されました。綿密な検査が繰り返された結果、すでに脳へ転移しており助からないとの診断です。
 妻の実家とも相談して告知するのはやめることにしました。病状は日に日に悪化して痩せ細り激痛に悩まされる最悪の事態になってきました。病室も詰め所のとなり、最終章が近いことは私の目にも明らかでした。
 担当の医師に相談したところこちらを紹介して頂いたのです。残念です」
 主人は『残念です』と二回繰り返した。
「ここは過度な延命治療は避けて、終末期を迎えた患者さんが残された余命をひとらしく過ごして頂くための施設です。職員一同、奥さまの人格を尊重しながら接して行きますのでご安心ください」信二がなだめるような口調で笑顔を見せながら話した。
「ありがとうございます。ただ皆さんがいくら良くして下さっても妻は戻れません」無念を吐き捨てるような発言の後主人は続けた。
「妻には今日の午後、私の口から告知しました。死期が近いことも知らせました。
 妻は『いつから知っていたのか?なぜもっと早く教えてくれなかったのか?』と私に食い付き、私のひざを叩(たた)いて悔し泣きをしました。そして『ここへ子供を連れて来て』と要求しました。これから実家へ迎えに行くところです」
「そうでしたか、心中お察し申し上げます」信二には後の言葉が見つからなかった。
 翌朝、信二は彼女の病室を見舞った。我が子に添い寝をするように横たわっている。起き上がることはできないようだ。
「おはようございます。ご気分はいかがですか?」と努めて明るく信二が話しかけた。
「あまりすぐれません」と弱々しい声が返ってきた。
「昨日、ご主人と立ち話しをしました。事情はお察し致します。私は放射線技師の加藤です。ここでは職員は皆、患者さんには職域を越えて接するようにしています。遠慮なさらずに何でも声を掛けてください。お話し相手もさせて頂きますよ」
 死期を知らされているひとには、それぞれ格別の思いがあるだろう。話すことによって少しでも気持ちが和(なご)むなら役に立ちたいとここで働く者は皆がそう思っている。
「ありがとうございます。少し愚痴など聞いて頂けますか?」と亮子が起き上がろうとした。それを制するような仕草を信二がした。
「ええ、問題ありません。そのままの楽な姿勢で結構です。私にはあなたと同じくらいの娘がいますよ」
「すみません。実は自力では起き上がることはできません。お言葉に甘えさせて頂きます。
 初めての出産で緊張していたのでしょうか我が子が正常であることを聞かさせたとたんに、体がいっきにけだるくなりました。産後はみなさんそうなると母から聞かされて安堵したのですが、一向に回復しません。食欲も無く、しまいに母乳も出なくなりました。そのころから何となく周りが落ち着かないのは感じてはいたのですが、まさかこんなことになっているとは思いもよりませんでした。
 今は悔しさで夜も眠れません。病に倒れたのは止むを得ないとしても、だれも真実を教えてくれませんでした。逆に『必ず良くなる』ようなことを言うのです。昨日、初めて知らされました。ただでさえ残り僅かなのに、なぜすぐに教えてくれなかったのか。悔しくて残念でたまりません。
 この子がものごころつくころには、私は確実に死んでいます。母親として何がしてあげれるのかを考えています。すぐに知らせてくれていたらと悔いるばかりです。失った時間が惜しくてたまりません」大粒の涙を流しながら彼女は絞り出すような口調で話した。
 信二は眠っている子供を覗き込んだ。夢でも見ているのか時折微笑むような表情をする。
「お母さんにしかしてあげられないことがきっとあるはずです。何でも気安く声をかけてください。お手伝いさせて頂きます」
 話し相手を申し出ておきながら、そばにいるのが辛くなって信二は病室を出た。それでも気になり、毎日病室を訪ねた。彼女は片時も子供を離すことはなく横に置いていつも何かを語りかけている。
「せめて私の温もりを覚えていてほしい。この声を思い出してほしい。この匂いを懐かしんではくれまいかと祈るような気持ちです」
 それから二週間後、母親は逝った。死を正面から受け入れて、母としての僅かな生涯を終えた。元日には病室で新年のお祝いをしたという。
 死を告知された患者にはその影が重くのしかかってくる。しかし死期を知ったからこそ見えてくる生き様が有るのだろう。母親は意識が無くなる直前まで我が子を離さなかったと後で聞いた。
 さぞ無念であっただろう。たしか健司君といった。『その匂い、忘れないでほしい』信二は祈るばかりだった。
 
        夫婦
 同年輩の友人などから『夫婦の会話がほとんど無い』とよく聞く。しかし自分たちはそうではないと思っている。一月も半ばになりそろそろ正月気分も抜け始めたころ、休日が妻の佳代子と同じになった非番の日に朝から炬燵(こたつ)で向かい合い話し合った。
 ここひと月ほどの間に出会った出来事を信二は佳代子に話して聞かせた。
作品名:夢と現(うつつ) 作家名:笠井雄二