夢と現(うつつ)
「ところで、法子の彼氏が言っていた『死のコンベア』についてだがここのところ別の意味で考えさせられることがある。あれは極論で過激な考えだが、まんざらでも無いと思う。
俺達の世代の多くはまじめに働いてきた。そしてリタイヤする季節を迎えた。年金のルールもわきまえて先輩の世代を支えてきた。当り前のようにな。そして今度は自分たちの番がやってきたがどうだ?支える側はあまりにも貧弱ではないか。国家は大きな借金を抱え、人口ピラミッドは完全に逆転している。社会のルールは破たんするのではないかと思う」
「その心配は充分にある。しかしな今、お前が考えることではないだろうが」死んで行くのにそんなことは放っておけばよいとばかりに時雄が言った。
「ホスピスでいくつもの死を見届けてその中でそれぞれの生涯における感慨深い話しを聞いた。死を見据えた現実を背負ってな。
自分も今、同じ環境にある。がしかし、正直なところ怖いんだ。死にたくないよ。奇跡を起こしてくれるなら何でもする。これが本音だ。その恐怖の中で、どこかでふんぎりを付けなければと自身の半世紀を振り返ってみた。
いつかも話したが、いくら考えても『ほぼ真面目にやってきた』という現実だけしか浮かんでこない。いくつもの節目があり、その都度の喜怒哀楽は確かに有った。だからどうなんだ?って思う」そして更に信二は付け加えた。
そうなんだ。この日本(くに)の復興と高度成長の中で豊かさを求めて走り続けてきた。夢はあったのか?そりゃ車が欲しいとか家を建てたいとかの夢はあっただろう。しかし、ちょっとの努力でそれは叶う。それは夢では無く、願望とか欲望の世界ではないか。
もっともっと世のため人のために貢献できる大きな夢は無かった。たぶん多くはそうだろう。一部の学者や芸術家などに限られる人種の中のひと握りしか感じてはいないだろう。
百歩譲って、がむしゃらに頑張ってきた人生を良しとしてみよう。
その結果、国家は大きな借金を造り、若い世代は減少してあたまでっかちの超高齢化社会を迎えてしまった。大きな負の財産を後世に残してしまった。
今後も支え続けるにはあまりにも体質は虚弱に思う。いつか必ず破たんするだろう。
日本古来の年長者を敬うという精神は薄れ、敬老の日なんぞはとんでもないということになりはしないか?支える側の衣食は不足して礼節どころではなくなってしまう。
「介護を受け持つキャパシティは不足して要介護の高齢者は街に溢れる。そして重い痴呆などの完治する見込みの無い者は『死んでしまえ』となるんじゃないか?
それは家族でさえ支持するようになり、この割合がある領域を超えたときには、そのことにだれも違和感や罪悪感を持たなくなると思う。大きな悲劇だよ。言葉や表現を替えて詭弁を駆使して肯定化してくると思う。正に『死のコンベア』だ。
ただ、死んでいく側が肯定すれば話しは別だ。尊厳死という考え方がその一例だろう。自殺や安楽死は悲しい結末だろう。しかしそれも『死んでくれて良かった』っと考える輩(やから)も出てくる。
大した夢も無かったが、こんな結果を夢見て頑張ってきた訳じゃなかったはずだ」
「お前の言わんとすることは分らん訳ではないが、だからどうなんだ」楽しい最後の時間を持とうと思っていたのに時雄は少しいら立ちを覚えた。
「自分が生きてきた確固たる証しが欲しいんだ。そのことでふんぎりを付けたい。負の現実はできてしまったことと割り切って、自分の証しをだれかに引き継ぎたい。それが少女まゆだ」
「お前の娘や孫ではいかんのか?」
「あの一瞬の出会いがそうさせるんだ。死の直前、最後に出逢ったんだよ」
「その役目を俺にせよよ言うのか?」困った奴だと時雄は思った。
そこへまゆがやって来た。看護婦と小野田医師も一緒だ。外はすでに暗い。
「今日の診察は終わり明日は非番なので私も一緒に来ましたよ、中村先生。
加藤さん、今日は顔色がとってもいいですね」小野田医師が告げた。
「ああ、その元気さがとんでもない難題を吹っ掛けてきましたよ。後でお話しします」
時雄が困った表情をした。
「おじさーん」と言ってまゆが信二の膝に転がり込んできた。
「よく来たね。元気そうだ。よかったよかった。さぁ、たんとお食べ」
「ごちそうだねおじさん。かにがいっぱいいるよ。いいのかな?うれしいよ」まゆは勢いよく鍋に向かい合った。小野田と看護婦を席に就かせて時雄が「さあ、おふたりもどうぞ」と促した。
だれもが信二の元気そうな姿を喜ぶ発言をし、現実を忘れさせようと努めて明るくふるまった。
しばらくして空腹が満たされたのかまゆが信二に言った。「おじさん、やせたね。だいじょうぶ?」
この子は変化を見逃してはいない。これには答えずに信二が小野田に尋ねた。
「この子の容態はどうですか?」
「大丈夫です。リハビリも順調です。心配された後遺症も、わずかに右足のびっこが残る程度でこれも成長と共に改善されるだろうと担当医が言っていました」
これを聞いて信二は安堵した、自分のおせっかいからこの子に障害が残ってしまえばそれこそ大きな悔いを残してしまう。
「まゆちゃん、よかったね。おじさんはとても心配していたんだ。申し訳ないことをしたってね。でも良かった。退院したら小学校へ行ってたくさんお勉強をするんだ。そして立派なお医者さんになるんだよ」
「ありがとう。でもまゆはおじさんのことが心配だよ。まゆには分るんだ。おじさんの病気は治らない。もし大きくなってお医者さんになってもおじさんを治してあげることはできない。
おじさんが食べさせてくれたころころ寿司、あのときまゆにくれたおじさんのやさしさが忘れられない。まゆもやさしい大人になりたいし、なれるような気がする。おじさんが教えてくれたんだよ。貧乏にも負けない。約束するよ。おじさんがいなくなるとまゆは寂しいよ。だからおじさん、頑張って。 だめ?」
この子は自分のためにその小さな胸を痛めている。
「だめなんだよ、まゆちゃん。もうすぐおじさんは死んでしまう。でもおじさんはまゆちゃんに会ったことをとても嬉しく思っている。大きくなったまゆちゃんを見ることはできないけれど、いつも遠くからまゆちゃんを応援しているからね。心配無いよまゆちゃんは優しい立派な大人にきっとなれるよ」
「分ったよおじさん。まゆはおじさんの分まで頑張る。約束するよ。だから指きり」こう言ってまゆは小さな小指を差し出した。
指きりをしながらまゆの眼からは大粒の涙がこぼれている。それを見て信二もまた泣いてしまった。
「ふたりの先生にお願いがあります」と、時雄と小野田に向かって信二が話しだした。
「この子は『約束する』と二度も言ってくれた。自分はこの子の中で生きられる気がします。どうか退院したらちゃんと学校へ行ける環境を作ってやってください。わずかですが私のお金を使ってください。私にはそれしかできないが、私はこの子にたすきをつなぐことができます」付き添いの若い看護婦の目にも涙が溢れていた。
「分ったよ、信二。おれが責任を持つ。小野田先生、力を貸してください」
「もちろんですとも。加藤さん、任せて下さい」小野田も協力を約束した。