夢と現(うつつ)
このふたりは見掛けだけではなくその内面までを見ている。どんなにふざけた格好をしていてもその人の持つ背景を瞬時に見抜いているし理解もしている。死を宣告された者に残された時間は少ない。その使い道を考えるときこのキャッチボールは嬉しい。
正面から死を受け入れる決心ができた今は自分なりにひとつの結論を出している。これから話す中から解って欲しい。まゆの感性のように」
家族の気遣いは本当に嬉しいと思う。自分の残された時間を心配してくれるその姿勢には素直に甘えればいいのだが、佳代子の想いを察するとき憎まれ役を演じ切ることこそ少しでもこころの負担を軽くしてやれるはずだ。
そのためにも絶対に本心は語れないと信二は考えている。確実に自分は死に、そして形は無くなる。そのときが大切だ。
「おとうさんには夢があったんだ。(本当はたいしたものは無い)そしてそれはほぼ完成したと思っていた。しかしこの歳で死を宣告されてそれは間違っていたと気づいた。何も無いところからゼロスタートしておかあさんとふたりで築いた家庭や家族はそれを満足させてくれるはずだった。(実はそのとおりなんだ)
だが、もう死んでしまう現実を考えるとき築いたはずの夢は逆にむなしさをさそう。大切なはずの家族のために我慢したこと、諦めたことは数えきれない。そうまでして接してきた家族でさえ今の現実を真から解ってくれてはいない。
団塊の世代と呼ばれながら走り続けたことが夢であったと錯覚してしまったことが最大の不幸に思う。
表面はきれいに取り繕っても、上辺(うわべ)だけをかすめて逃げる局面が多くあった。自分を殺して周りに気を遣いすぎて真に体ごとぶつけ合うこともなかったように思う。数の中で繰り広げられた激しい競争の中で身についた悲しい習性だろう。そのことは仕事だけではなく日常の全てに当てはまる。家族にもな。
しみついた数の倫理は家庭にも抵抗なく持ち込んだ。お前たちに遠慮することなくもっとやりたいことをやれば良かった。せめて自分の城では自分をさらけ出したらよかったんだ。その取り返すことのできない時間が惜しい。成し遂げたと思っていた夢は、実は虚像だったんだ。その裏には自身が描いた実像があったはずだ。死を受け入れようと決意したときにそれが見えた。悔しいが家族なんか無かった方が良かった」
「ちょっと待て」と時雄が口を挟んだ。
「家族を否定する今の発言は取り消すんだ信二。お前ひとりで生きてきた訳じゃあるまい。家族の団らんに癒されて奮い立った現実はたくさんあったはずだ。残された家族の死後を案じるお前の本心とはとても思えないぞ」
(解っているよ先生。ここは正念場なんだ)
「きれいごとではすまないんだよ。先生だって奥さんの性(さが)を嫌ったじゃないか。へき地の医療を支えるという立派な思想は奥さんには理解してもらえなかっただろう。それを切って捨てたからこそ今があるんじゃないか。
おれはそれすらできないでいるんだ。家族というしがらみを引きずってきたが故に真の夢さえ置き忘れてきたんだ。先生のように切り捨てれば良かった。その方が後悔しない人生があったはずだ。気付くのが遅かったよ。もうすぐ死ぬんだぜ」
鍋だけが音をたてているがだれの箸も動かないでいる。
法子が口を開いた。
「私たち家族なんか無い方が良かったと言いたいの?今日まで示してくれたお父さんの愛情はなんだったの?それも虚像だと言うの?」
「そのときはそうは思っていなかったさ。だが今は違う。注ぐべき愛情の対象は家族ではなく自分自身だったと気付いたんだ。こんなに早く死ぬとは思わなかったからな」
「勝手だよお父さん。見損なったよ。ひとりで死んでいけばいい」由美子が投げ捨てた。
「そうさせてもらうよ。その方がお前たちも気楽だろう」信二は焼酎の入ったグラスをあおった。
(いい感じになってきた。みんなもっと怒るんだ)
「今日の勘定は先生持ちだ。ごちそうを頂こう」追い打ちをかけるようにまた憎まれ口をたたいた。
「いただきましょう」と言って佳代子が箸を動かしながらグラスを信二に差し出した。
眼は潤んでいる。(わかったよあなた。そんなにまでしてくれなくてもいいのに)
信二は佳代子のグラスにビールを注いだ。(もっと憎むんだ)
このとき時雄は察した。(夫婦の想いは通じ合った)
『自分は何も知らない』『騙(だま)され通そう』見事にふたつのすれ違いを演じている。
ふたりの娘は表情が硬い。しかしこれが信二の狙いだったんだ。大した奴だよお前は。時雄は信二を抱きしめてやりたくなった。
「さぁさぁ、ふたりとも気分を直して食べましょう。最後になるかも知れない。おじさんの顔も建てて食べて下さいよ」孫のことや法子のロシア語など時雄が懸命に話題を替えようとした。ぎくしゃくしながらも宴(うたげ)は進み、終わった。
「信二ともう少し話しがしたい」という時雄に「遠いところお世話を掛けます。ごちそうさまでした」と礼を述べて三人は帰っていった。
帰り道で法子が切り出した。
「お父さんてひとが変わったね。あんなんじゃなかったのに」
「あれは本当のお父さんじゃないと思う。死んでしまうという感情がしゃべらせたのよ。束の間の我がままだよきっと。それに先生に甘えているのよ」と由美子。
わずかに間があって佳代子が言った。
「あれは本心よ」(辛かったでしょうに)
「さぁ、飲みなおそう」
「ああ、そうしよう。気配り、ありがとう先生」
「奥方は充分に理解したと思う。立派だよお前は。とても俺にはできない」
「先生の言う『家族の死後』はこれで守られる。最後に大仕事ができるよ。
それとは別に頼みがあるんだ。まゆのことだ」
「そうくると思っていたよ。実はここへ呼んである。事情を話したら小野田医師が快く手配してくれた。今から電話するよ」時雄は携帯を取り出した。
「今から看護婦が連れてこちらに向かうそうだ。そうそう」と言って時雄は仲居を呼び、蟹を鍋に追加するよう指示をした。
「小野田医師はお前と彼女との関係をよく知った上で、お前のケアには彼女の存在は大切だと言っている。だけどな信二、深入りするなよ。おせっかいの上塗りにならんようにな」
「あの子は俺が怪我をさせたようなものだ。なのに俺を恨もうともしない。むしろ『忘れない』と言ってくれる。あの黒で固めた衣装もまゆだけが『格好いい』と言う。
死を宣告された後の一瞬の出会いだった。ほんの僅かでもどちらが早くても遅くても出逢わなかった。不思議な縁(えにし)を感じる。今はまゆの将来が心配だ。
不幸にして路上生活をしてはいるが父親だって何かの事情があったんだろう。たぶん団塊二世だろう。退院したらどこかの施設に預けられることになるだろう。六歳になったはずだ就学させてやりたい。生命保険の一時金をまゆの将来使ってほしい。その手続きを先生、やってはくれまいか?」
「それは断る。何もお前がそこまでしなくても国家がしてくれる。おせっかいが過ぎるぞ」
この話しは後にしょうと思い信二は話題を替えた。