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夢と現(うつつ)

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 生きてきた自分の軌跡を誉めることを考えてみた。俺たちは激しい競争社会を生きてきた。その中でその時々の夢があった。あれがしたい、これが欲しい。欲望は限りなかった。そしてひとつひとつ手に入れてきた。そのために他人を傷つけたという認識は無いが無意識のうちに傷つけたことも有ったろう。
 団塊の世代と言われながらも頑張ったよ。そして老いてしまった。その多くは、だいそれた野望も野心も無く正直に働いた。ささやかな幸せを求める『夢追い人』だったんだよ。 
 だれが決めたか社会のルールとして定年を迎え、振り返ると将来の不安だけが圧(の)し掛かる。だれもご褒美はくれない。やはり自分で切り開くしかない。
 政治家や役人が不正を働いても、結局はあきらめる。そんな習性が身についてしまった。それも数の中で生きてきた悲しい習性だ。主役にはなれない『その他大勢』なんだ。今の時期、死んで行く自分はある意味で幸せかもしれない。『コンベア』に乗せられなくても済むからな」
 しんみりとしゃべる信二だが、その目には絶望の陰りは感じられない。
「そんな話しを聞くと辛くなる。死ぬことも含めてあきらめよ。それが答えだと言うのか?」
「まぁ、そんなところだ」
 それ以外に何が有る?あきらめるしか無いだろう。信二は時雄の反応を待った。妙に食欲がある。目の前の料理はほとんどが空になって、ビールも三本の瓶が転がっている。
「今度は何を飲む?」時雄が聞いた。
「焼酎は有るのかな?」
「そうくるだろうと思い長崎から一本提げてきた。すでに仕度ができているはずだ」時雄はボタンを押して仲居を呼んだ。
「焼酎を頼む。それから鍋もやってくれ」やがて煮えた蟹鍋をつつきながら語らいが再開した。
「そこで先生の言う『死後』の話しだ。仲むつましいほど残された家族には悲しみが大きい。俺は少々、嫌われ役を演じようと思っているがどう思う?」
「そんなことをしなくても自然体がいいんじゃないか」
「普通はそうだろう。しかし佳代子には負い目がある」
「あのことか?」
「そうだ。このまま死んでみろ、佳代子には悔いが残りそれでまた自分を責める。本当はあのことこそ永遠に葬り去ってやりたい。俺が死んだ後、佳代子が法子にでも告白してみろ、それこそ大きな不幸だ。あのやくざの格好もその現われなんだ。悪(わる)を演じるためのな」
「そんな遠まわしなことをしなくても、口が裂けても言うな、と奥方に言えばいいじゃないか」
「最後まで知らなかったことにしたいんだ。俺たちは避妊に失敗したという現実が欲しいんだよ。そうでないと俺は辛い」
(やはり大きな痛手であったのか。そりゃそうだろう。しかし、奥方は知っている。信二の胸の内を俺がしゃべったからな。この夫婦はどちらも悪くは無い。それぞれが壊すまいと願う気持を成就させてやりたい)と時雄は願った。
 会話はそこで途切れた。お互い黙って飲み、そして鍋をかき混ぜている。団塊を生き抜いてきたひとりが死のうとしている。死にたくはないだろうに。残される家族の死後を憂い、自身で背負いとおそうとするのは正に信二の『夢』なのか。

 数にものを言わせて、社会の底辺をただ只管(ひたすら)に支え続けたひとりの幕切れは寂しい結末になりそうだ。
 大量に生産され、大量に消費されて、そして大量に廃棄されるかのように。
 しかも道行く他人(ひと)には何事も無かったのごとく。その他大勢の輩(やから)が同じ道筋を通ることだろう。
 
 佳代子たちがやってきた。
「俺が招いておいたんだ」と時雄が告げた。
 信二がひとこと発した。

「何しに来たんだ。今は顔も見たくないのに」

「ずいぶんとひどい言い方ね。本当は寂しいくせに。もっと素直になれば。その寂しさを分かち合えるのは家族しか無いんじゃないの?お母さんに失礼だとは思わない?」法子が懇願するような表情で信二に訴えた。
「お前に何が分かる?」
「ちょっと待て信二。そんなつもりでみんなをここへ呼んだんじゃない。お互いの良心を理解しあって欲しいんだ。さぁ奥さんたちもここへ座って。蟹が美味そうに煮えている。食べながら語りましょう」不穏な空気を遮るように時雄が割って入った。
 皆を席に着かせて時雄がビールを追加した。
「皆さん、私の言うことを聞いてほしい。死期を宣告された信二はその最期をどういう形で迎えようかと真摯に考えている。もちろんそれは残される家族のことを思ってのことです。
 そして奥さんやお嬢さんたちもまた、信二に何がしてやれるのかを考えて懸命に努力している。
 どちらも善意がなせることです。ただ、それぞれの考え方には大きなギャップがあります。それは去ろうとする者には残された時間があまりにも少なく、短期決戦で解決させようする焦りがあります。方(かた)や見送る側には適切な対応を模索しながらも、こちらもまた時間に追われて真の結論に達せずにジレンマがあります。同じ焦りでも中身が違うのです。 
 それは方(かた)や攻めようとするのに対して片方は護ろうとする。いずれも善意と良心が成せる技なのですがここに接点が大きくずれる原因があるのです。
 偶然にも私は全てを知り尽くして双方を偏見無く公平に見る機会を与えられました。単に信二の親友という立場をはるかに超えてです。その攻防を安全に着地させる行司役を務めさせてください。しかし、そのチャンスは今日が最後です。幸いにも今日は信二も気分が優れています。絶好の機会です。お互いの壁を取り除きながらぶつかり合って円満な解決をしてください」
 正にそうだと時雄は思った。『最後まで知らなかったことにして、その災いを握りつぶしたい』『詫びるチャンスは今しか残されていない』このふたつがせめぎ合っている。ただ着地場所を間違えるとひどいことになる。慎重に進めるしかない。時雄は褌を締め直した。
「先生の好意には感謝するけれど、何もしない方がいい場合だってあるんじゃないか?大きなおせっかいにでもなったら逆に迷惑だよ」時雄の好意に感謝しながらも生真面目な男ゆえやりすぎることを憂い、信二はわざと憎まれ口を叩いた。
(そんなに気を遣うなよ)と時雄は胸の中で叫んだ。
「あなた、そんな言い方は先生に失礼でしょう。私たちのために遠くからわざわざ出てきてくださったのに」
「そうよお父さん、先生は心配してくれているのよ。私だってお父さんのその格好や最近の悪口雑言は何か抵抗を感じている」と由美子。
「きのう、重大な話しがあるって言ってたでしょう。それは何なの?私だって先生が傍にいてくれることは心強いわよ」と法子が迫った。
「そうだったな。その前にこの黒装束と禿げ頭はどう思う?由美子は嫌っているようだが」
「最低よ」法子が一蹴した。佳代子も横でうなづいている。
「お前たちにはそんな風にしか映(み)えないだろう。それは普通なんだと思う。今日と同じ明日が約束されている者にはな。
 だが、あの子は『格好いい』と言ってくれた。見る目線が違うんだよ。そして『おじさんのこと忘れない』ともな。
 またある老人は『中途半端』と言い捨てた。
作品名:夢と現(うつつ) 作家名:笠井雄二