夢と現(うつつ)
「まゆちゃん、ありがとう。おじさんはまゆちゃんから勇気ををもらったよ」
「勇気?」
「そうだよ。おじさんは迷っていたんだ。生きることってなんだろうってね。ショッピングセンターでまゆちゃんに会ったことをおじさんは悪いことをしたって思っていた。おじさんに会わなければまゆちゃんは事故に遭わなくて済んだ。申し訳ないことをしたって思ってたんだ」
「そんなことないよ。だっておじさんは優しかったし、お寿司もやっくんの分までくれた。そんなことしてくれたのはおじさんが初めてだよ」
「ちがうんだ、まゆちゃん。少し難しいかもしれないが、おじさんは優しさを押し売りしただけなんだ。それもその場限りのね。だって、そのときだけだろう。毎日してあげれるんじゃないから。おじさんは優越感にひたっただけなんだ。そしてまゆちゃんが大怪我をした。おじさんに会ったばっかりにまゆちゃんは事故に遭ったんだ。すまないと思っているよ、今でも。
でも今日、まゆちゃんはおじさんに生きることの大切さを教えてくれた。感謝しているよ。早く元気になって、たくさん勉強するんだ。そしてお医者さんになるんだ。その姿をおじさんは見たいと思うんだけれどね・・・。貧乏に負けちゃいかんよ」
「よく分からんけれど、おじさんに会ったことはまゆはとっても嬉しい。怪我だってもうすぐ治るよ。まゆが大きくなってお医者さんになったらおじさんの病気はまゆが治してあげる。だから頑張って。おじさんの病気は重いって聞いたよ。競争はたぶんまゆが勝つと思う。おじさんは二等賞でいいよ。だからね死んじゃいかんよ」
この子は約束を覚えている。どっちが先に元気になるかと競争したんだ。どこで聞いたのか信二の病状を純粋に気遣ってくれている。嬉しいことだ。
原島に戻った時雄は信二のことが頭から離れない。
あいつは死ぬ。あんないい奴がなんでだ。死んでもいい奴は他にごまんといるではないか。死刑囚だって執行までに数年は生かしてくれる。最近では高齢の犯罪者が増えて、刑務官の介助が必要な受刑者が数千人もいるらしい。そのために刑務所のバリアフリーが検討されているとか。
時雄は無性に彼らが憎くなった。元来、日本の刑務所は犯罪者を更正させることに重きをおいている。しかし出所してもその多くが再犯者となって戻ってくるという。まして犯罪者の高齢化は益々進むだろう。その中には持病を持つ者も多いはずだ。娑婆(しゃば)に戻す行為そのものが無意味な受刑者もきっといるだろう。戻しても更にどこかの施設の世話になる。
もちろん、彼らにも生きる権利がある。今の日本はまだ余裕が有るのか彼らを我慢強く更正させようとする。いつまでそんなことができるのだろうか?
少子高齢化の社会は加速度的に進み、支える側がきっとギブアップする。多くの国民は犯罪者にはならない。ごく一部の輩(やから)がそうなる。彼らを切り捨てるときがくるだろう。
『死はベルトコンベアで処理される』とだれかが言っていたと信二から聞いた。彼らこそそのコンベアに乗せればいい。彼らこそ死ぬべきだ。それなのに何であいつが。時雄はままならぬ現実に怒りすら覚えた。
過激な考え方が正しいとは思わないが無駄な行為を容認し続けるには、この国の土台は少し軟弱に思える。医者として片方では生命を護る義務と責任を負い、一方では死期を早める技術も持っている。
信二の死は時雄にある種の攻撃的な思想をもたらしていた。
ゴールデンウィークにはまた見舞ってやろうと時雄は思った。
まゆは話しを終えて「またね」と言って帰っていった。
そこへ由美子が孫を連れてやってきた。信二の好きな紀州の梅干を差し出して「これそこのホームセンターで見つけたの。郷土の物産展をやっていたのよ。お父さん、好きでしょう」
「そんな塩分の高いものが病人に食えるか。お前は何を考えているんだ。それに孫なんか連れてきて。やかましいだけだ」
「そんな言い方って無いでしょう。帰るわ」由美子は怒ってさっさと孫を連れて帰ってしまった。
これでいい。憎まれ役を演じることが後に残されたものの悲しみを少なくする。仲が悪い方がいいんだ。陰険な悪役を演じることこそ家族の『死後』のためになる。信二はそう自分に言い聞かせた。
「お父さんたら憎たらしいことを言うのよ」
由美子からの電話を法子が受けている。
「そうでしょう。ここのところおかしいよ。お母さんもそう言ってた。よほど気分でも悪いんじゃないかな」
「そうかもね。あした、お父さんの好きな肉じゃがでも作って持って行くわ」
横で聞いていた佳代子は『きっと辛いんだろう』と涙ぐんだ。
翌日、信二はまゆの病室を見舞った。動けるうちは積極的に何でもやろうと決めた。まゆは元気だ。ころころと笑うその笑顔に癒される。後遺症が残らなければいいがと心配になる。退院まで生きていてやりたいと信二は願った。
部屋にいない信二を佳代子が心配して追ってきた。
「いいところに来た。ちょっと付き合え」
「どうするの?」
「買い物に行こう。詰め所に頼んで許可をもらってくれ」
ふたりは佳代子の運転する車で出掛けた。外は明るい。すっかり春の日差しだ。気分が良いのはまゆの存在がそうしてくれている。いい子だ。
「まゆのパジャマを買ってやりたい」
信二が『まゆ』と呼び捨てにするのを佳代子は初めて聞いた。二百万円をあの子のために使えと言っていたことを思い出した。
「おとうさん、まゆちゃんは他人(よそ)の子でしょ。そんなことよりもっと自分のことを考えたらどうなの?」
「うるさい!、お前たちよりよっぽど俺の支えになっているんだ」ここでも信二は憎まれぐちをたたいた。
(法子だって他人(ひと)の子じゃないか)口には出さないが、どの子も可愛いと信二は思っている。
子供服売り場で信二があれこれと品定めをし始めた。由美子たちが小さいときによくこうして子供たちを連れて買い物に来たものだ。ふたりともかわいかった。ふたりの成長を楽しみに、あれこれ迷いながら品定めをしたものだ。
普通に、平凡に暮らしてきた。子供たちの将来が夢だったんだろうな。子供たちに夢を託してそれで終わって行く。それが人生か?がむしゃらに働いてきたことに後悔は無い。しかし、それだけだったとしたら寂しいものがある。
大勢の仲間たちが今年は第一線を退く。どんな夢の答えと現実がみんなを待っているのだろうか?希望を持てる老後が待っているのだろうか?
それにしても自分は『こんなはずではなかった』と残念に思う。
もはや悔いているのでは無く、残された時間を前向きに生きようと決意していた。気に入ったパジャマにたどりついた。洗い替えと併せて二着を買った。レジで精算をしている満足げな信二をやや離れて見ている佳代子は複雑な表情を見せた。
(もっと他にすることがあるだろうに)
「もう一軒付き合え。今度は俺のものを買いに行く。お前の言うように自分のことのためにな」こう言って信二は紳士服売り場に向かった。