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夢と現(うつつ)

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 水を抜いている間は吐き気を伴う脱力感があったが、しばらくすると体が軽くなったようで気分が良くなって行くのが自分でも分かった。こんなことを繰り返しながら幕を閉じて行くんだろうな。抗癌剤のせいか髪の毛も抜け始めている。そろそろ最期の舞台をどう演じようかと信二は考えだした。
 残された家族の死後のことを考えている。信二は自問自答を始めた。
 どんなときに悲しみが深いのか?
 それは愛するひとが死んだときに感じるのだろう。
 ならばどうすれば悲しみが起こらないのか?
 それは愛されなければいい。早く死んで欲しいと思われることか?
『憎まれ子、世にはばかる』と言うではないか。
 まゆに希望を託すことは前向きな考え方だろう。家族に対してはそれとは別な考えを信二は持ち始めた。

       最終章
 まゆの回復は目覚しい。首は固定されてはいるが自分で歩いてトイレも行く。
 信二は二日ほどまゆの見舞いに行かなかった。気分が悪く行けなかったのだ。そうするとまゆが車椅子で見舞いにやってきた。付き添っている看護婦が「どうしても連れて行ってとせがまれましてね」と信二に伝えた。
「おじさん今日ね、まゆの誕生日なの。六歳(むっつ)になったよ」
「そうかい、それはおめでとう」
「きのうも、おとといもおじさんに会えなくてまゆは心配してた。どこか痛いの?」
「ううん、そうじゃないよ。ちょっと疲れたのかな。ごめんよ」
「おじさん、まゆはもう歩けるよ。早くやっくんに会いたい」
「すぐに会えるよ。お父さんにもね」
「お父さんには会いたくない。きらいだよ」
 まゆの表情が暗くなった。よほどのことが父親との間にはあったのかそのことできっと小さい胸を痛めているんだろう。信二は話題を変えた。
「まゆちゃんは小学校一年生になるんだ。楽しみだね」
「まゆ、学校に行けるのかな?お金も無いし」
「心配しなくても大丈夫だよ。お国が行かせてくれるよ」
「まゆは行けなくてもいいんだ。おじさんが早く良くなってくれたら一緒にご飯を食べるんだ。学校なんてどっちでもいい。おじさん早く元気になって。ころころ寿しおいしかった。それにおじさんはやさしかった。あんなことしてくれたのはおじさんが初めてだよ。まゆ、絶対に忘れない」目を輝かせてまゆが信二の方をじっと見つめている。
 信二は耐えられなくなって目を逸(そ)らした。素直に信二の回復を願ってくれている。そのことが耐えられないのだ。
「まゆちゃん、学校へは行かないといけないよ。これから大きくなってお金を稼いだり、家族をもったりまゆちゃんにはやることがいっぱいあるんだ。夢をかなえるには勉強がいるんだよ」
「夢って?」
 一瞬、信二は答えに迷った。
「おじさんには夢があるの?」
 そこへ小野田医師が入ってきた。回診である。小野田は看護婦にまゆを戻すように指示した。
「またくるね」と言ってまゆは出て行った。
 カルテと顔色を見比べて「安定していますね。加藤さん、気分はどうですか?たまにはお家に帰って気分転換なんかもいいですよ」と、いまのうちにやりたいことがあればさせてやろうと小野田は気遣った。
「そうですね。あまり気分が優れないんですよ。またの機会にします」
「そうですか。その気なったらいつでもいいですよ」
 小野田が出て行った後、佳代子が「あなた先生もああ言ってくれてるんだし、気分のいいときに外泊しましょうよ」と勧める。
「それよりお前の格好は何だ。もっとましな格好はできんのか。化粧だって手抜きしてるだろう」信二が妙にからんだ。
「あら、いつもと同じよ」
 信二は背中を向けてしまった。よほど気分が悪いんだろう。それで八つ当たりしているんだと佳代子は考えた。家に帰り法子にそのことを話した。
「そうでしょう。おかしいよ。昨日もね私に遅いって怒るの。まだ朝の八時よ。それにスッピンで来るな、なんて言うの。頭にきちゃった」法子も怒っている。
「よほど悪いのよ。少しは八つ当たりもさせてあげないと。それでストレス解消になるんだったら、それはそれでいいじゃない」
「そうね、でもお父さん痩せたね」
 
 その頃、信二はまゆとの会話を思い出していた。
 『夢』か。俺の夢は何だったんだろう。豊かな生活を求めて働いてきた。子育てだってやった。家も買った。これといった野心も無いまま過ぎてきた。他人(ひと)を踏み台にしたことも無いしされたこともない。いや、されたことはある。佳代子の裏切りはそれかもしれない。しかし、それとて今となっては目くじらを立てるほどのことではない。
 本気になって怒ったことが無い。鳥肌が立つような興奮を味わった記憶も無い。時雄もそう言ってた。
 政治家になりたいとか、パイロットになりたいと言って、しっかりとした目標を持った同級生は確かにいた。それに成功した者もいれば挫折した奴もいる。
 挫折した負け組はどうしているのだろう。勝ち組はなりたいものになっても夢はそこで終わりにはならな
いはずだ。そこからまた、新たな目標が始まるんだろう。
 みんな数の中で生きてきた。激しい競争の中で頑張った。ただただ豊かさを求めて。それが『夢』だったのかな。自分はもうすぐ終わる。死ぬことは怖いな。つい最近まで自分が死ぬなんて考えてもみなかったのに。
 それにしてもこの病気は恐ろしい。こんなに急激に悪化するものなのか。個人差もあるだろうがホスピスで見る終末期の患者はそこへ運ばれて来るまでには少なくとも数ヶ月の猶予はある。
 自分はどうだ。発症から僅かにひと月足らずではないか。自分では終末期の域に達したと思っている。あと僅かだろう。死にたくないな。その瞬間ってどんなになるんだろう?そしてそのあとは?
 考えてみると自分は頼れる宗教を持たない。七五三や結婚式などその時々に都合の良い神社仏閣で済ませてきただけで、真に求めた宗教が無い。子供の遺伝子治療を拒んだ母親は自分の持つ宗教を我が子にも持たせたいと言ったらしい。その宗教の持つ是非はともかくとして、立派だなと信二は考えた。
 しかし今更、どこかの信者になろうとも思わない。にわか信者を救ってくれる神仏はいないだろう。どう演じようかと信二の思いは堂々巡りをしていた。

 翌朝、まゆがやってきた。自力で歩いてやって来た。
「おじさん、元気?」
「元気だよ。まゆちゃんは?」
「まゆも元気。おじさん、大きくなったらまゆはお医者さんになりたい。夕べ夢を見たの。また、おじさんとお寿司を食べてた。まゆは嬉しかった。だからまゆもだれかを喜ばせてあげたいの。
 まゆの怪我を治すために先生たちがいっぱい頑張ってる。嬉しいよ。おじさんのお寿司も先生がくれるお薬もまゆには宝物だよ。忘れない。お医者さんになるんだ」いつになく輝いた目でまゆが語った。
『忘れない』と言ってくれる。この子の中で生きられるのか。形あるものは必ず壊れる。出会ったものは必ず別れる。命あるものは必ず死ぬ。
 それが運命(さだめ)ならばそれを受け入れることしか術はあるまい。これも立派な宗教だろう。『いわしの頭も信心から』と言うではないか。
 まゆの言葉に勇気付けられたと信二は思った。この子の目は『生きろ』と言っているように思えた。
作品名:夢と現(うつつ) 作家名:笠井雄二