夢と現(うつつ)
それには『お話ししたいことがあります、後で電話をください』と時雄の携帯電話番号が記されていた。
その夜、ふたりは時雄の泊まるホテルのロビーで会った。
「奥さんのことはよく憶えていますよ。手術の時にはよく機械渡しをしてくれましたね」
「私も先生のことはよく憶えています。その節はお世話になりました」
時雄がロビー横にあるラウンジに誘った。
「お疲れでしょう奥さん。術後の経過は順調ですか?」時雄は気遣った。
「ええ、私はすっかり良くなりました。それより主人の方が」
「お酒は勧めませんが何を頼みましょうか?すみませんが私は少し飲ませて頂きます」と暗に素面(しらふ)では話せないと宣言するような言い方を時雄がした。ウイスキーの水割りと紅茶が運ばれてきた。時雄はいっきに飲み干し、今度はオンザロックを追加した。
「立ち入ったことですが実は奥さん、信二からご夫婦の秘密を聞かされました。
あいつは立派です。しかし病に倒れ一抹の迷いがあったようですが私の激励で吹っ切れたようでした。私はむしろ奥さんを心配しています。あいつよりはるかに苦しんでおられることでしょう」
「恥ずかしいかぎりです。私は罪深くてひどい女です。主人に八つ裂きにされても仕方ありません。ひと時代前ならば即刻、手討ちにされていたでしょう。
何も聞かずに許されたことはとても重いことです。そして何も話すなと言います。私は主人に詫びて許しを乞うことすら許されません。これは拷問に等しい仕打ちです。その意味では主人を恨んだこともありました。
でも、すぐにそれは筋違いだと気付きました。主人は私以上に傷つき、思い悩んだことでしょう。今は感謝しています。ところが主人があんなふうになってしまい、私はいっそう申し訳なく思っています。どうしてあげたらいいのか出口が見えません」佳代子はやや俯(うつむ)きかげんで話した。
「今日解ったのですが、その奥さんの気持は充分に信二には通じています。しっかりと自分の死期も弁(わきま)えた上で残された時間をどう使おうか考えています。
そこで私からのお願いがあります。辛いことではあるでしょうが、最後まで秘密はそのまま秘密で通してください。あいつもそう願っています。奥さんも最後までだまされ役を演じてほしいのです。
そうなることが分かっていながら積極的に意図した訳ではなくあいつはあなたの夫として最後までまっとうしようとしています。甘えさせてやってください。
これから激しい痛みが彼を襲います。その周期は日を追うごとに短くなります。懸命な緩和治療が行われますが、真の緩和ケアはあなたが横にいることです」解りますか?と問いかけるように時雄は訴えた。そして三杯目のウイスキーを頼んだ。
佳代子はただ泣きながら言葉が出ない。
「あいつとはこうやってよく飲んだものです。私のことを不器用な医者だと怒ったような言い方をすることがありました。いい奴ですよ。そんなに死に急がなくてもいいのに」
時雄は佳代子を抱きかかえるようにしてタクシーまで見送った。
少し意味合いは違うが、そうなることが分かっていながら意図した訳でもないのに仕方が無いと認める『未必の故意』という逃げ場がお互いに必要だろうと時雄は考えた。
希望
翌朝、時雄は信二を見舞った。
「帰るよ。また来るさ。そうだな来月にしようかな。そのときは奥方公認の女でも買いに行こう。一杯もやりたいしな。貴重な時間だ。お前だけじゃないぞ。家族や俺にとってもだ。無駄にするなよ」
信二には時雄の気遣いが嬉しかった。握手をして再会を誓い、時雄は帰っていった。
「グッドニュースよお父さん。まゆちゃんの意識が戻ったんだって。話しもできるみたい。会いに行く?」午後になって法子が飛び込んできた。
信二を車椅子に乗せて法子とふたりでまゆの病室に向かった。一般病棟に移っているまゆを見て、こんなに早くて大丈夫かと信二は心配した。浮浪者の子供だから満足な治療がしてもらえないのだろうか。
「まゆちゃん、おじさんが分かるかい?」
うっすらと目を開けてまゆがうなづいた。
「良かったねまゆちゃん。傷は痛いかい?」
「うん。おじさんのこと覚えているよ。お寿司おいしかった」
「元気になればまたたくさん食べられるよ。おじさんと一緒に行こう。そうだ、やっくんも一緒だ。頑張るんだよ」
「ありがとう。まゆ、おじさんのこと忘れない。でもおじさんも病気なの?」
パジャマを着て車椅子に乗っている信二をまゆが気遣った。
「ちょっとね。たいしたことはないんだ。すぐによくなる。そうだまゆちゃん、どちらが先に元気になるか競争しよう」
「うん、まゆ頑張る。負けないよ」
それくらいにして、と看護婦に制止さてた。まだ長時間の会話は無理のようだ。
その看護婦に聞いたところ、家族は現れないとのこと。連絡先も分からずに困っているという。警察が駅周辺を探し回ったが父親と弟は姿を消したらしい。かわいそうに。信二は病室に戻った。
「法子、頼みがある。おかあさんに伝えてくれ。保険の一次金はまゆちゃんに使ってやってくれ。おとうさんがあんな目に合わしたようなものなんだ」
「分かったわ。伝えておく。ちょっと用事を済ませてくるわ」と言って法子が出て行った。
信二はまゆのことを考えている。どっちが早いか、と勝ち目の無いレースを約束してしまった。確実に負けるだろうがまゆの回復は楽しみなことだ。これを励みに頑張ってみよう。そして消えてゆく自分の命はまゆにつないで行こう。信二は『生きる希望』がひとつ見つかったと思った。
そこへ、ホスピスの院長と事務長が見舞いにやってきた。
『とりあえず休職扱いにしておくからしっかりと養生して早く復帰してくれ』と儀礼的な見舞いをすませて、さっさと帰っていった。
もはや信二の復帰は不可能なことは分かっているはずだ。代わりの放射線技師も決まっているだろう。
いつか時雄が『ワーカーホリック』の話しをしていた。そうだな、『自分でないと』なんて考えはとんでもない思いあがりだ。代わりははいくらでもいる。
今日の院長だってそうだ。役に立つうちはちやほやしてくれるが、そうではなくなった瞬間に背中を向ける。それが現実だなと思い、腹も立たなかった。
信二は短い時間であったが毎日まゆを見舞い励ました。時間が短いのはまゆだけの理由ではない。信二自身が車椅子での移動に苦痛を感じるようになっていたからだ。
食欲も無く、息苦しい。酸素の助けが離せなくなっていた。ただテレビを見たりして横たわっている時間が増えた。信二はまゆとの約束を忘れてはいない。だが、何もできない。ただ点滴と投薬を受けているだけだ。
一週間が過ぎたころ、小野田医師は「加藤さん、胸部に溜まった水を抜きましょう」と信二に伝えた。
太い注射器が準備され背中からゆっくりと水が抜かれていく。体液を抜かれることは極端に体力を消耗する。濁ったお茶のような水が入った注射器が三本並んだ。
「これくらいにしておこう」と小野田医師が告げた。何か信二に話したようだが、よくは聞き取れなかった。