夢と現(うつつ)
首を横に振った信二は両手をあわせて祈るような仕草をしている。
夜遅くになってまゆの手術が終わり、一命は取り留めたが障害が残るだろうという情報を佳代子が聞いてきた。
「まずは良かった。しかし障害が残るとはかわいそうなことをしてしまった」
「そんなに自分を責めなくてもいいんじゃないの?あなたがはねた訳でもないんだから」
「そういう問題とは違う。俺と出会わなければ、あそこに俺がいなければ」信二はそのままベットにもぐり込んだ。
翌朝、運ばれてきた朝食をほとんど口にしない信二をみて佳代子は不安になった。
小野田医師が回診にやってきた。単に状態を聞いたりした程度で普通の会話だったが小野田は佳代子に『話しがある』というような目配せをした。
信二の顔を診るなり異変を感じた小野田は「何が有ったのですか?外泊で何か無理をされたのですか」と詰め所へやってきた佳代子に尋ねた。
楽しく過ごした外泊や事故の話しを佳代子は小野田医師に詳しく説明をした。
「そうでしたか。その事故でご自分を責めておられるのですね。それが原因でしょう。この病気はメンタルな部分があります。気分的に落ち込んだり、過度な緊張があってそれが負担になったりすると加速度的に進行することがよくあります。かなり深刻な状況です。今朝の顔色は尋常ではありません」
こう伝えて僅かの時間考えた後、小野田医師は「胸部断層撮影をやってくれ。早い方がいい」と横に控えていた看護婦に命じた。
撮影を終えて病室に戻ってきた信二はすっかり疲れた様子で昼食も横目で見ただけで食べようともしない。よく見ると確かに顔色はどす黒く生気が感じられない。しかも肩で息をしている。そのまま横になって目をつむってしまった。
佳代子は詰め所に行って症状を伝えたところ看護婦は受話器を取って小野田医師の指示を仰いだ。
「酸素を与えて呼吸を楽にするようにとの指示です。それから後で先生が病室へ来られるとのことです」看護婦は医師の指示を伝えて信二の病室へ向かった。
酸素吸入をしている信二を見て佳代子は(この夫(ひと)はもうだめかも知れない。生きる望みを捨ててしまったのだろうか?)と涙を流した。
午後になって小野田医師がやって来た。
「胸部に水が溜まり始めています。二、三日後に抜きましょう」表情は明るいが思ったより早すぎる進行に小野田は心を痛めていた。
まず気持を楽にしてやろうと思い「加藤さん、まゆちゃんの手術は順調に終わり経過も良好ですよ」努めて笑顔を作りながら小野田が信二を気遣った。まゆという名前まで調べてきたのだ。
「そうですか。それは良かった」信二の表情が途端にほころんだ。
ここぞとばかり小野田は「加藤さん、動けるでしょう。見舞いに行きましょう」と言って車椅子を持ってくるようにと看護婦に指示した。落ち込んでいる原因を取り除き、生きる希望を持たせたいと小野田は考えた。
まゆは集中治療室にいた。ガラス越しに見えるまゆは眠っている。
「よく寝ていますね。子供は回復が早いのですぐにここから出て一般病棟に移りますよ」
「先生、障害が残ると聞いたのですが」
「それは解りませんが、私たちは最善を尽くします。安心してください」
まゆが死ななかったことを信二は嬉しく思い、礼を言って佳代子と戻って行った。少し元気が出た。心なしか顔色も良く見えることに佳代子はひとの持つ気力とはすごいものだと思った。
信二は原島の中村時雄に電話をかけた。
「よう、元気かい?」時雄の磊落な声が聞こえてきた。
信二は肺癌に冒された現実を説明した。
長い電話の後、時雄は「とにかく元気を出せ。明日そちらへ行く。詳しい話しはそれからだ」と言って電話を切った。
次の日の午後、時雄がやってきた。佳代子は「ちょっと用事を済ませてくる」と気を利かした。
時雄はすぐに医者の眼になり信二を見つめた。
(いかんな、こいつは)と察しをつけた。
「よく来てくれたな」
「当たり前だろう。しかし急だったんだな」
「そうなんだ。まさかと思ったよ。ところでどうだい?先生の眼から診て」
「いかんな。かなり進行が早いのではないかな。ここの医者はなんと言ってるんだ?」
「一年かそこらだろうって言ってる」
そんなにはもたんだろうと時雄は思った。
「先生よ。本当のところを教えてほしい。セカンドオピニオンだと思って尋ねる」
「解った。親友として医者の垣根を越えて話してやる。よーく聞け。その医者の診たては間違ってはいない。何のデータが無くても俺には解る。どこまで進行の速度を抑えられるかの勝負だろう。気を確かに持って、その医者に任せることだ。そして生きる望みを捨てないことだ」
時雄は辛かったがきっぱりと言い切った。
信二は『引導を渡されたな』と感じ、時雄にあることを願い出た。
「少し長くなるが聞いてほしいことがある。実は佳代子が浮気をしていたんだ。それに対して自分がとった行動が正しかったのか聞きたい。」
信二がことの経緯をゆっくりと話し始めた。時雄も驚きを表しながら聞いていた。
「残された者には死後が有ると先生は言った。それをどう演じてやればいいのか教えてほしい」
「そうだったのか。お前が訪ねてくれた時には、円満な家庭だと言った記憶がある。お前が気付いたことを奥さんも知っているのか?」
「知っているはずだ」
「むしろ奥さんが苦しんでいるんだろうな。不治の病に倒れたとは言え、お前に他の女を抱けなどとは普通の環境では言えない言葉だ。しかし、大した奴だよお前は。そこまでの決断ができる男はそうざらにはいない。よく許したな。立派だ。その常識外れの良心と言った書道の先生も中々のもんだ。
間違いなくお前たちは避妊に失敗したんだよ。お前に許された奥さんはお前以上に悩み苦しんでいるはずだ。迷うな。許したんなら中途半端な許し方はやめろ。『毒食らわば皿まで』徹底することだ。限られた時間で精一杯奥さんに甘えろ。赦(ゆる)しきってやることだ」
他人事だから言える。自分にはできんことだと思いながら時雄は信二を見直した。
「そうか、期待どおりの答えだよ先生。やり切ってみせるよ」信二の頬が赤く輝いた。
時雄は信二の主治医に会っていた。
「進行の早さに驚いています」小野田は自身の診たてが甘かったことを反省するかのように時雄にカルテを見せながら言った。
ひと通りカルテに目を通した時雄は「深刻ですね。終末期と言える状況でしょうか?」と解っていながら相手を立てる言い方をした。
「もうお解かりでしょう。加藤さんは口には出しませんが、すでにかなりの痛みが襲っているはずです。緩和ケアを始めようと思っています」
お互いが医者である以上これ以上話さなくても答えは解る。時雄は信二のことを頼み、礼を述べて病室に戻るとそこには佳代子がいた。
「若いがしっかりした医者だ」小野田のことを時雄は誉めた。
「彼に任せてしっかりと養生しろよ。今夜は近くに宿をとってある。明日朝にはもう一度くるから」
「遠いところをありがとうございました」と礼を述べる佳代子に「おだいじに」と言って時雄は別れ際に小さなメモを握らせた。