夢と現(うつつ)
「渡せない。万引きはいかんことだが、私はこの子が気にいった。ごらんなさい。あんなに綺麗な目をしているではないか」
そこへ騒ぎを察した二人の警備員がやってきた。
「このお客さんが万引きをかばうのです。警察に連絡してください」と若い店員は警備員に頼んだ。
事情を聞こうとした警備員を制して「お金は私が払いますよ。金さえ払えば立派なお客だろう。さぁ行こう」と信二は子供の手を引いてレジへ向かった。
「そういう問題とは違うでしょう。いけない事だと教えてやることも大人の仕事じゃないですか?」店員が食い下がった。
「たぶんあなたの言っていることは正しい。九十五?はね。だがな、今の瞬間この子は腹を空かしているんだ。この子の胃袋を満たしてやってからでも遅くはないだろう。
君は若い。この子はもっと若い。君たちには多くの残された時間がある。私には無いんだ。それだけに時間を有効に使いたい。逃げはしない。せめて私と一緒にいる間だけでもこの子を罪人扱いはしないでほしい。一端(いっぱし)のお客として扱ってくれ」と信二が店員を睨み返した。その形相にひるんだのか店員は追うことをあきらめた。
信二はレジでパンの代金を払い、子供を連れて二階のレストラン街へ向かった。
ショッピングセンターという交差点に多くの人生が集まってくる。期待どおりだ。普段ならこんなことはできなかっただろう。恥ずかしいとも思わない。これからの僅かな時間の間に発生する出逢いをやたら疎(おろそ)かにはするまいと信二は考えた。
「あなたの名前は?」
「まゆ」
「まゆちゃんか、いい名前だね。いくつ?」
まゆは片手を広げて見せた。
「そうか、五歳か。お腹空いているだろう?おじさんがおごってあげるよ何が食べたい」
二階にはファミリーレストランやファーストフードの店が並んでいる。まゆは怯えるような仕草で周りを見ている。
「大丈夫だよ。おじさんが付いているから」
信二は手を引いて回転すしの店に入った。薄汚れた子供を見た店員は見下すような目でふたりを見た。それには構わず店内へ入っていった。昼時で混雑してはいたがカウンター席に案内された。
「さぁ食べよう」と信二が促した。
初めは恐る恐る手を出していたまゆもそのうち猛烈な勢いで食べだした。その食いっぷりを見て信二は満足している。
やがて空腹が満たされたのか表情も柔らかくなったまゆを覗き込むようにして信二が問うた。
「まゆちゃんはどうしてお店の物を盗ったりするんだい?」
まゆは悪びれるでもなく「弟がいるの」と呟くように言った。
「お父さんとお母さんは?」
「お母さんはいないよ。お父さんは夜までいない。帰ってくるまでふたりでいる」
「でも、盗んだりすることはいけないことだね」
「わかってる。でもお腹が空くんだよ。私はがまんできるけど、やっくんはかわいそうだよ」やっくんというのが弟のようだ。
「おじさん、おすしやっくんの分ももらってもいい?」そうか、パンをひとつポケットに入れたのは弟の分だったのだろう。
「いいよ、折をもらってあげよう。たくさん持って帰りなさい」
まゆは「ありがとう」と言って、うれしそうな表情で折に詰め始めた。
信二も嬉しかった。『ありがとう』という言葉がこんなにも新鮮に聞こえたことは今まで無かった。
五歳の女の子を責めても仕方があるまい。この子はまた万引きをするだろう。詮索はやめよう。親にもよほどの事情があるのだろう。
「下まで送ってあげるよ」と信二が言ってふたりは手をつないで玄関まで来た。
「おじさん、名前教えて」
「聞いてどうするんだい?」
「やっくんに教えるの。おじさんのことを話して、がんばろうって言うんだ」
「やっくんはいくつ?」
今度は四本の指をまゆが立てた。
「そうか。おじさんは加藤って言うんだ」
「わかった。まゆ、おじさんのこと忘れない。お腹いっぱい、ありがとう」
まゆは寿司の入った折を抱えて手を振りながら走り出した。空腹を満たしてくれた喜びを全身で現し、何度も振り返りながら飛び跳ねるように駆けていった。
強姦をして満州で子供に救われたという老兵の話しが信二の脳裏をよぎった。
手を振りながら見送っていると、まゆは嬉しさのあまりか車道へ飛び出してしまった。そこへ突っ込んできたオートバイがまゆを刎(は)ねた。小さなからだは宙に舞いそのまま地面にたたきつけられた。
「あっ」と声をあげた信二は駆け寄ってまゆを抱き上げ「大丈夫か?」とどなった。
すぐに人だかりができてだれかが「救急車!」と叫んでいる。額が裂けてまゆは血だらけになっている。息はしているが意識がない。
信二は上着を脱いでまゆをくるみ「まゆちゃん、しっかりするんだ」と抱きしめた。やがて救急車が到着してまゆを搬送していった。
まゆが大事そうに抱えていたすし折が無残にばらけている。信二は泣きながら、崩れてとても食べられない寿司をひとつひとつ拾った。
「まゆちゃん、ごめん。おじさんが声をかけなければこんな目に遭わなかった。万引きで捕まっても怪我はしなかった。なまじ親切心を出したばっかりにひどい目に遭わせてしまった。ごめんよ、まゆちゃん。死んではいかんよ」
警官から目撃証言を求められても信二は振り向きもせずに寿司拾いをやめようとはしない。そこへ佳代子たちが信二を見つけて駆け寄ってきた。
「何があったの?あなた」佳代子だ。
「俺が悪いんだ。あんなことをしなければ」
血だらけになった服装で泣きながら寿司を拾い集めるその行動は、見守る人たちに異様な光景として映った。
家に帰り着替えをした信二は「病院へ戻る」と言い出した。
「明日の朝戻ればいいと先生も言っていたんだからそうしたら?」
「疲れたんだ。立っているのも辛いんだ」
事実、信二はうずくまってしまった。また法子の運転する車で病院へ戻った。
希望していた電話付きの部屋が用意さてれている。病室に着くなり何を思ったのか信二は『一一九』をダイヤルしてまゆの行方を聞いた。
「法子、あの子がこの病院にいる。どうなったか聞いてきてくれ」
「分かった」と言って法子が病室を飛び出して行った。
『おじさんのこと忘れない』
満足に風呂にも入っていないんだろう、薄汚れた顔でコロコロと笑ったまゆの表情が忘れられない。
よけいなことをしてしまった。死んでいく現実が感傷となって粋(いき)がったばかりに、あの子を不幸にしてしまった。貧しいことはかならずしも不幸ではないはずだ。自分がしたことこそまゆを不幸にしてしまった。自分が手を差しのべなくっても国家が救ってくれる。生活保護も義務教育だってそうだ。ちゃんと憲法に謳(うた)われている。
憔悴しきった信二を見て佳代子は声も駆けられずにいた。
しばらくして法子が戻ってきた。
「分ったわよお父さん。女の子は頭蓋骨を骨折していて、首の骨も折れているんだって。まだ手術中よ」
「そうか、事故から六時間以上になるのに。親はいたか?」
「分からない」
「佳代子、今夜はここに泊まってくれないか。とてもひとりではやりきれない。あの子の状態も気になる。時々様子も見てきてほしい」
「いいわよ。それより何か食べたらどう?」