夢と現(うつつ)
「なに言ってんのよふたりとも。私だってまだまだ商品価値はあるんだから。ほんとうはお母さんも裸にしようとしたんだけれど、固くご辞退されました」由美子が片目を閉じて佳代子にウインクした。
孫たちも喜んでにぎやかな宴になった。娘たちが小さい頃の話など懐かしい話題に花が咲き、信二は時間の経つのも忘れて楽しいときを過ごした。
由美子の生まれた昭和五十三年には、よど号のハイジャックがあった。
昭和五十八年の法子が生まれた翌日にはサハリン沖で大韓航空機が撃墜された。信二にはいろんな想い出が頭の中を過(よ)ぎった。
法子が友達から借りてきたカラオケのボリュームを少し下げてセットして、信二とデュエットしたりなども披露した。
横では佳代子があまり食べない信二のことを気遣っている。それでも病気の話しは避けて、みんな楽しい話題づくりに努めた。
時間も遅くなり、孫たちもとなりの部屋で寝ている。
「そろそろお開きにするか」と信二が法子に合図した。
「そろそろ終わりましょうか。最後に私とお姉ちゃんでピンクレディのUFOを歌います。ふたりはこのクラブのトップダンサーですからね」と法子が言って二人は踊りを交えて歌いだした。
「お舅さん、今夜はお招きいただき本当にありがとうございました。また近いうちやりましょう」と洋一が礼を述べた。そして、みんなで次の日程まで決めてしまった。
「ありがとう。楽しみにしているよ」信二はみんなに礼を言って由美子たちを玄関まで見送った。しかし、生きてまたこの家に帰ってくることができるのか信二は分からなかった。
片付けが終わり、佳代子と法子と三人でお茶を飲みながら雑談が始まった。
「お父さん、疲れない」法子が気遣った。
「少しな」
「あまり食べてないでしょう。飲み直そうか?お母さんほら、この前もらった竹輪があったでしょう」
「そうね」と佳代子が仕度をした。
「今夜はみんなの気遣いが嬉しかったよ。礼を言う」信二が頭を下げた。
「何言ってんのよ。早く元気になることよ。お礼はからだで返してもらうから」法子に一蹴された。
「そうしたいのはやまやまなんだが、おとうさんの命はもうじき終わるよ。おかあさんを置いて先に逝くことになるけど法子、しっかり支えてやってくれな。おとうさんが先に死ぬことは順番としてはいいことだと思うが、ちょっと早すぎる。まさかこんなことになろうとは。残念だけれど許してほしい」横で佳代子は泣き出した。
「お父さん、勝手なことを言わないでよ。まだ満足に治療も始まっていないのに。そんなに簡単に死なれたら迷惑よ。十年以上早いわよ。そういうのをね、フライングって言うのよ。フライングはね、またスタートをやり直すんだから」法子も涙声で訴えた。
怒ったように、先に寝るからと言って法子は二階へ上がってしまった。
フライングか、うまい例えをするもんだ。やり直しのきかないフライングもある。失格になる場合もあるんだよ。レッドカードを持ってフライングしてしまった自分は間違いなく失格になると信二は思った。
「佳代子、無駄な延命治療はやめてほしい。そのときがやってきたら黙って全ての生命維持装置を外してくれ。ホスピスで働く自分には患者の気持がよく解る。そう遠くない日にそれはやってくる。約束してくれ」
「いやよ。今からそんな約束はできないわ。小野田先生だって任せてくれと言ったじゃない。そんな弱音を吐かないで。なんであなたがこんな目に合わなければいけないのよ。私がそうなるべきよ。神様もひどい」佳代子は泣き崩れた。
女遊びを勧めた女房(こいつ)も苦しんで自分を責めている。まさか、フライングなんて。『死にたくない』信二の目からも涙がこぼれた。
未必の故意
翌日、信二は朝早く目覚めた。まだ誰も起きていない。新聞を取りに外へ出た。足元がふらつく。
『気を付け!』と自分に号令して姿勢を正したが真っ直ぐに立っていられない。すぐに半歩踏み出してしまう。居間に戻り、新聞を広げたところへ佳代子が起きてきた。
「あら、もう起きてるの?」
「うん、お茶をくれないか」
目は新聞の見出しを追ってはいるが、頭では他のことを考えている。今朝、自分の足は立ち続けることを拒否した。あと何ヶ月だろうか?
残された時間は少ない。何をしようか?自分のために、家族のために。
「なに考えてるの?お父さん」じっと動かない信二を見て法子が聞いた。
「起きていたのか。夕べはありがとう。今日は天気も良さそうだからどこかへ連れて行ってくれないか?」
「お安いご用よ。でも、いつもは私の車には絶対乗らないくせに。いいのかな?」と法子が冷やかす。
「乗ってやるんだよ」
「いいわ、どこへ行こうか?」
「もし、由美子の都合がよければ四人で買い物がしたい。ショッピングセンターへ連れていってくれ」
「OK!任せなさい」といって法子は由美子に電話をかけようとした。
「まだ早いわよ。何時だと思ってるの?もう少し後にしなさい」と佳代子が制した。
「何言ってんの。善は急げよ」お構いなしに法子は受話器をとった。ここでも、この子は間違いなく俺の娘(こ)だと信二は思った。
お昼前に四人はショッピングセンターにいた。何を買うという目的が有る訳ではないからぶらぶらと歩いている。子供たちが小さいころは、休日などよく手を引いて買い物に来たものだ。そのような家族連れも多く見かけられた。
「ちょっとひとりで歩いてみるわ。そうだな三十分ほど後で二階のレストランで待ち合わせよう」そう言って信二は別れた。
ショッピングセンターへ行こうと言った信二には目的があった。
そこには異なった境遇のひと達が集まってくる。自分のような絶望感を持ったひともいれば、結婚を控えた若いカップルが新居に胸を膨らませてやってくることもあるだろう。
幸せも不幸も人の数だけ有るとどこかで聞いたことがある。幸せなひとはそれを満面に表現しながら買い物を楽しんでいる。しかし、自分は不幸ですという表情のひとはひとりもいない。辛い現実を隠して平静を装っている。
行きかうひとの顔色や表情を見ながら信二は考えている。死ぬという現実を隠して楽しく買い物ができるのか試しにやってきたのだ。死んでいく自分に欲しいものなど有ろうはずが無い。今、自分はどんな顔をしているのだろうか?
そんなことを考えていると「こらー」と店員に追い掛けられて逃げてくる女の子が信二にぶつかって倒れた。両手にパンを握っているが倒れても離してはいない。
抱きかかえて起こしたところへ店員が追いつき「返しなさい」と怒鳴った。少女は信二に抱きついて後ろに隠れてしまった。周りには人だかりができた。
「いつもなんです。ああやってこの子はいつも万引きをするのです。父親は駅の構内で暮らす路上生活者なんですよ。さぁ」っと店員は子供を渡せとばかりに両手を差し出した。
見ると薄汚れた服装だ。しかし目は透き通るように綺麗だ。何を思ったのか信二は「食べちゃえ」とその子目配せをした。
ひとつはポケットに入れて、もうひとつを食べだした。
「お客さん、その子をこちらへ渡してください。変にかばうとお客さんも一緒に警察へ行ってもらいますよ」