夢と現(うつつ)
こんな夫婦の会話なんて有るのかな。聞く方も聞く方だが、答える方もどうかしてる。それが抵抗もなくしゃべれるのはやはり死という現実に直面したからだろうと信二は感じた。
「なぜだまってたの?」
「普通、こんなことかみさん言う亭主はおらんだろう」
「そうね。ところであなたまだ“おとこ”でしょう。どう、若い美人と一戦交えてみたら?」
「そんなことにその金を使えというのか?」
「そうよ。決してそんなことという次元じゃないと思う。何かの週刊誌で読んだことがあるの。男のひとっていくつになってもそっちの願望があるって」
信二は困った表情になった。
「やっちゃいなさいよ。それも半端じゃなくて美女の三、四人侍(はべ)らして。奥様公認でできるなんてちょっといいんじゃない?」佳代子がくびを竦(すく)めるような仕草をして声を出して笑いながらいった。
「おいおい、それはちょっと違うぞ。それじゃスリルも何もあったもんじゃない。あの手の遊びはかみさんの目を盗んでするから面白いんじゃないか」
信二も笑いながら答えた。そこへ法子がやってきた。
「にぎやかね。笑い声が外まで聞こえるわよ。あっ、何よこれ。江戸屋の寿司じゃない。いただくわよ」
にぎりをほう張りながら「よほどいいことがあったの?ふたりとも楽しそうよ。それともお邪魔かしら」法子が冷やかした。
「楽しいことがあったさ。おかあさんがね」と信二が言い出すと佳代子が遮った。
「恥ずかしいからやめて」
「何よ、言いかけてやめるなんて」
楽しい会話が繰り広げられて信二は嬉しそうな顔をしている。これが家族なんだ。自分が背負った重荷は背負うのには充分の価値があった。良かった。 これでいいんだ。信二は今更ながらに満足している自分を誉めてやりたくなった。
「ところで頼みがある。そのお金で病室のグレードを上げてくれないかな。電話付きの部屋にしてほしい。病院では携帯電話は使えんからな」
「お母さん、生命保険の話しをしたんでしょう。まだ早いって言ったのに」
「早くはないわ。こんな時のために高いお金を掛けてきたんだから。むしろ早くもらって有効に使うべきじゃない?」いたずら気味な視線で信二を見ながら佳代子が訴えた。
「お金は荷物にはならんさ。慌てて使うことはないよ」と信二。
『慌てないといけないのよ』と佳代子は思った。
「病室の格上げはお安いご用だと思うわ。それよりお父さん、他に何か希望は無いの?お姉ちゃんからも聞いて来て、って頼まれているの」
「そうだな、外泊が許されるならもう一度やってみたいことがある」
「なんなりとお申し付けください。ご主人様」ふざけるような仕草で法子が言った。
「おかあさんが入院したときに、突如としてオープンした『クラブ法子』で一杯やってみたいんだ」
「OK!問題ない。明日は土曜日だし、今から先生に頼んでくる」と言って法子は部屋を飛び出して行った。
「あの子ったら」
「家族っていいもんだな」
ふたりは顔を見合わせて微笑んだ。やがて小野田医師を伴って法子が戻ってきた。
「話しはお嬢さんから聞きましたよ。外泊は問題ありません。ご自分が負担に思わなければ何をやってもいいですよ。お酒は控えめにね。薬を出しておきます。月曜日の朝に戻ってきてくださいね」むしろ小野田医師は賛成してくれた。
翌日の午後、佳代子に迎えられて信二は家に帰ってきた。
「やっぱり我が家はいいな」
「お帰りなさい、お父さん。クラブはまだ開店準備中よ。夜まで待ってね」法子が張り切っている。
信二は自分の部屋に入った。あと何回この部屋へ戻ってくることができるんだろうか?書棚に目をやり、数冊の本を手に取った。何度も読んでぼろぼろになった本もある。
そのタイトルを見ていると、その時々の想い出が甦(よみがえ)る。途端に寂しさが込み上げてきた。
『死にたくない』信二は大声で叫びたくなった。
佳代子がお茶を運んできた。
「気分はどう?」
「うん。いいよ」と振り返った信二の顔色を見て異変を佳代子は驚いた。
病院では感じなかったが、顔色はどす黒くて生気が薄れて見えた。初めは照明のせいかとも思ったが、入ってきた法子と見比べてそうではないことが分かった。
「ゆっくりしてて。何か欲しいものがあったら呼んでね」法子が佳代子を引っ張るようにしてふたりは部屋を出て行った。
「お母さん、お父さんの顔色見た?悪いよ」
「お前も気付いたかい?おかあさんも心配してる。外泊して急に悪くならなければいいけれど」
「お父さんの部屋に鏡は無いよね。見るとびっくりするよ。私それとなく調べてくる」
「いいよ。そんなことしたって無駄よ。洗面所や風呂場の鏡までは隠せないでしょう」
法子はあきらめて、クラブの準備に戻った。
信二はけだるさを覚えて横になったら、いつの間にか眠ってしまった。
夕方になって「お父さん、そろそろ起きて。先にお風呂に入ってよ、もうすぐお姉ちゃんたちもやってくるから」と法子に起こされた。
目覚めが悪い。喉が渇き、体がだるい。それでも準備してくれた風呂に入った。ぬるめのお湯に浸かって全身を見下ろしたとき、痩せたなと思った。
その夜、由美子は孫と旦那も連れてやってきた。
「元気そうじゃないですか、お舅さん。忙しくてお見舞いににも行けずにすみません。これ、一杯やりましょう」旦那の洋一が提げてきた大吟醸の瓶を信二に見せた。
「洋一君も元気そうでなによりだ。さぁさぁそこへ座りなさい」
「ご馳走がいっぱいですね。この飾りつけは何ですか?何かパーティでも始まるみたいですね」洋一が目をきょろきょろとさせた。
「そうよおにいさん。今夜はちょっと驚くことがあるから。お楽しみにね。まぁ、お父さんと先にビールでも飲んでて。お姉ちゃん、仕度するよ」と法子が由美子を誘って二階へ上がっていった。
「いやね、私がクラブで飲んでる気分にしてくれと頼んだものだからね」と、照れながら信二が『クラブ法子』の話しを洋一にした。
「そうでしたか。そりゃいい。けれど由美子もそんな格好をするのですかね?それは勘弁願いたいですね」
ふたりの会話に佳代子も入ってきた。
「さぁ、飲みましょう」と言ってビールを注いだ。
「お姑さんも大変ですね。ご自分が手術したばかりなのに。お舅さんも早く元気になって退院してくださいよ」
事情は由美子から聞いているはずの洋一が気遣ってこんな言い方をした。
(そうしたいんだよ。だけどな)と信二は辛くなった。
白身魚が入った鍋を突っついて歓談していると、ふたりの娘が体にバスタオル一枚巻いて現れた。
「クラブ法子へようこそ。私がママの法子です。この子はニューフェイスのゆみさん。しっかりサービスしますから今夜はゆっくりしていってくださいね。明かりを少し暗くしましょう」と法子が言って電灯を消し、オシャレでカラフルな大き目のロウソクをいくつか並べた。
「ささっ、どうぞ」と言ってふたりは信二と洋一の横に座りお酌をした。
「ちょっと照れますね、お舅さん」
「だろう。君のかみさんだってなかなか色っぽいじゃないか」
「そうですね。由美子もまんざらでもないですね。法子ちゃんなんか艶(なまめ)かしくて抱きつきたくなりますよ」