夢と現(うつつ)
(ママがだめだと言ったんだ。由美先生は好きだよ。ママと一緒に先生の話を聞いたんだ。
僕は難しいことは分からないけれど、遺伝子がどうとか言ってた。先生が出て行った後ママがこの病院を出るって言ったよ。僕はママにいやだと言った。由美先生はとっても優しいし親切だよ。ママは怒って帰っていった。
次の日、由美先生が僕にこんなことを話してくれた。僕の病気は血が止まらなくなる恐ろしい病気なんだって。そしてとっても珍しい病気で完全に治すことは難しい。何でも僕が僕であることを決めている細胞みたいなのがあってそれに問題があるんだって。その並びを治してあげる治療の研究をしているって由美先生は言ってた。僕は由美先生に治してもらいたい。でもママは絶対だめだって言っている。由美先生にはないしょだよ)
この子と伊藤医師との信頼関係が崩れていないことに中村はほっとした。
(君の気持ちはよく分かった。よく話してくれたね。ありがとう。おじさんにも君の病気を治す手伝いをさせてもらうよ。時々遊びに来るからね)
今はこの子より母親が反対する真の理由を探ることが先決だ。自分は遺伝子治療に賛成している訳では無いが、それが可能性を秘めたひとつの選択肢ならば母親ではなくこの子に判断させてやりたいと中村は思った。
「このおせっかいが後で夜も眠れないくらい俺を悩ますことになった。話しが長くなるが良いか?」と断って中村は続けた。
母親に会った。とても立派な根拠を持って反対していた。
(遺伝子は生命の有り様を決める根幹のはずです。保はこの子にしかない遺伝子を持って生まれてきた。遺伝子を操作することはこの有り様を変えてしまうことになるのではないですか?私たち夫婦には信仰があります。大きくなればこの子にも同じ信仰を持たせてやりたいと思っています。造物主の神聖な領域を冒すことはできません)
これには中村もまいった。現代医学の持つ可能性をひも解いて説明すれば容易に理解が得られると思っていたが、医学とは関係の無い世界を盾に取られては先へ進めない。
だが元々医学と信仰は切り離せない関係が有る。輸血を拒んだ某宗派の話しは有名だ。たまたま自分が遭遇しなかっただけでそれは単にラッキーであったと考えるべきかも知れない。外科医としての腕は他に負けないものを持っている。評判も決して悪いとは思っていない。自信に溢(あふ)れて何の迷いも無かったはずなのに。
ただ、取り扱っている商品が『命』であることを甘く診(み)ていたようだ。母親には真剣に説明はしたが何ひとつ理解を得られることは無かった。
負けた。自身に負けた。敗者のむなしさだけが残った。
「それからの俺は真剣に慎重にこの件を研さんしたよ」
遺伝子疾患が分かったとき、信仰や生命の倫理から病を受け入れるしか無いのか?あるいは遺伝子治療を受け入れて病と闘うのか?
前者は生命の価値観を、後者は病を治そうと権利を主張している。自身の疾患に対して自らが選択を決定する後者を医師として支持したいと考える。
しかし、本件のように患者が子供でありその親権者の思想で決めてしまっても良いのだろうか?小学校六年生にもなれば立派な人格も有るだろう。どう理解させれば良いのか?その術は?患者が判断できない状況に有ればどうする?告知されずに知らないケースもある。
待てよ、もっと深刻な問題が有るではないか。遺伝子治療は発症する前に診断ができる。出生前でもだ。
発症前や出生前の胎児の段階で遺伝子治療を施せば患者や障害者はこの世からいなくなる。いやこの世には生まれることができない。患者や障害者の生存すら否定してしまう。患者や障害者として生きる権利が奪われはしないか?
「俺は悩んだよ。報酬をもらいながら『ありがとう』と感謝される職業は世の中で医者くらいしか無いだろうと思っていた。単に病を治療するだけが医者では無いだろうと考え始めた。気付くのが遅かったよ。
俺が思い悩んでいるうちに、母親は子供を無理やり退院させてしまった。その後どうなったかは知らない。
そんな折にあのイトさんの件が有ったのさ。医者としての自信が無くなったんだよ。
子供のころ風邪を引いて通った近くの医院でのことが想い出された。真冬の寒い時期だった。
診てくれた老医者は俺の体に触れる前に火鉢で手を暖めていた。あの気配りこそが医術の原点だろう。俺は無医村へ行くことを決めたんだ」
何年かぶりに聞いた中村の声だったが懐かしさを通り越して信二は考え込んでしまった。
憲法二十五条でいう生存権を考えてみよう。生命は何億年もかけて進化してきた。その都度生きる上での必要な事象を伸ばしながら進化したのだ。自然の摂理として当然のように優生遺伝を繰り返した。
現代人もその流れの中にいるはずだ。ひとたび遺伝子に異常が見つかったときに故意にそれに手を加えることは許されないのか?遺伝子治療が進んで遺伝子疾患が極端に減少したとき、優生学は差別や迫害の道具に使われることになりはしないか?
単に命を長らえて『生かされている』ことを指して生存権とは言わないだろうと信二は考え始めた。
ホスピスはいわゆる老人ホームでは無い。しかし類似した部分もある。食事時間以外に集まっておしゃべりしたり、将棋などの共通の趣味を楽しんだりする時間とスペースもある。ボランティアがやって来て折り紙をしたり活け花教室を開いたりすることもある。
ここには九十名ほどの患者がいる。老人ばかりではない。不幸にも若くして終末期を迎えた患者もいる。そのひとりひとりに自分史が有るはずだ。聞いてみようと信二は思った。
戦争体験
ホスピスでは放射線技師といえども、患者を車椅子に乗せて散歩させるときがある。
師走とは言え、今日は風も無く穏やかな日和(ひより)だ。小春日和(こはるびより)の中、信二は一人の老人を散歩させていた。
田中金治 八十三歳、肺癌で余命二ヶ月と診断されていたが一年近く生存している。右の肺は切除され片肺だ。
「田中さん、今日は暖かいですね。気分はどうですか?」
「今朝、食べたものを吐いたよ。でもよくあることだ。まぁまぁかな」言葉に張りが無い。
「ここでの生活はどうですか?」
「うん、満足しているよ。あと僅かと言われて一年も生きているよ。このまま死なないのかな」僅かに笑みがこぼれた。
「田中さんの人生はどうでしたか?」あまりにも単刀直入な聞き方でまずかったかなと信二は思った。
「戦争を知っているかい?」
「いえ、僕は戦後の生まれです。小さいとき、物が無くてひもじい思いをしたことは覚えていますがね」
「わしは二十三歳のとき満州におった。陸軍二等兵だった。まだ日本軍に勢いのある時期だ」老人の表情が暗くなった。
「明日、死ぬかもしれないという恐怖がものすごかったよ。銃撃戦のときなどは壕で震えていた」
「怖いでしょうね。でも平穏なときもあったんでしょう。そんなとき兵隊さんは何をしているんですか?」