夢と現(うつつ)
酔い潰れて、そこから先の会話は覚えていないが中村医師が病院を去ったのはそれからあまり時間が経っていなかった。
それから十年近く経った今日、中村医師が求めた治療思想がやっと普及し始めている。この『銀河荘』もそうだ。
ホスピスとは『医者や看護婦らがチームを組み、患者の肉体的、精神的な痛みを癒(いや)す緩和ケア病棟』と定義される。厚生労働省によると全国に百四十施設以上、ベット数は三千床に達するらしい。
中村医師は郷里の長崎に帰り、無医村だった離島の診療所から近況が届いてからしばらくは交信も有ったが今は音信も途絶えている。
信二は来年六十歳の定年を迎える。六五歳までの定年延長を政府(おかみ)は義務付けてはいるがさてさてどうなるんだろうか?
自分も高齢者の域に達している。人生の中間点ははるかに通り越した。子供のころに五十歳を過ぎたひとを見るとすごい年寄りに見えたものだ。寿命が延びたことは良いことだろうがまだ『働け』と言う。すぐにでも病魔に見舞われて自身がホスピスの世話になるやも知れないのに。
アジア大会の開会式は終わった。仮眠を摂ろう、そして明日には自分を見直す作業を開始しようと信二は決めた。
日本国憲法
宿直の翌日は非番である。信二は旧友である中村医師が医者としての苦悩を語った記憶を回想しながら家路に付いた。
家にはだれもいない。妻の佳代子は近くの開業医で看護婦としてパートで働いている。午後になれば帰ってくるだろう。長女の由美子は五年ほど前に結婚して家を出ている。次女の法子は大学院の学生だ。
子供はひとりでいいと思い産児制限をしていたのに間違ってできたのが次女の法子だが、こちらの方が何かにつけて優秀なのは皮肉なものだ。
居間でファンヒータのスイッチを入れて暖を取りながら昨夜の回顧を不思議だなと想い出している。
笑みを浮かべながら逝った山田さんの臨終が実に感動的だった。そこから中村医師に飛び火したのだろう。
まだ郷里の離島で頑張っているのだろうか?あいつも同年代だ。治療するだけの医者に悩んだ生真面目な先生だったな。今、自分はホスピスで終末医療の現場に居る。そう遠くない未来に自分も人生の終着駅に着く。一年後には定年だ。落ち着いていろんなことを考えてみよう。
そんなことを考えているとある一節が思い出された。
『そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであってその権威は国民に由来し・・・その福利は国民がこれを享受する』
学生時代に暗記させられた日本国憲法の前文にある一節だ。
信二は本棚をさばくり、『日本国憲法』と書かれた小冊子を引っ張り出してきた。
時計はまだ九時過ぎだ。台所から好きな日本酒を持ってきてチビチビやりながら読み始めた。以前にも読んだことはあったがほとんど記憶には残っていない。しかし今日は妙に新鮮に思えるのはなぜだろうか?
「へぇー、一〇三条から成るのか」信二はペラペラっとページをめくりながら斜(なな)め読みを始めた。仕事柄であろうか第二十五条で目がとまった。そこには『生存権』のことが書いてある。
全ての国民は最低限度の健康で文化的な生活を営む権利を有しており国はこれを補償しなければならない。
『生存権』とは何ぞや?きっと一言では著(あら)わせないそれぞれの人生の綾が錯綜しているのだろう。
信二には大した知識も無いが一介の放射線技師として、この件を見つめてみようと決心した。そんなことを考えながら酔いがまわったのか信二はうとうとと眠ってしまった。
「そんなところで寝てると風邪引くわよ」と帰ってきた佳代子の声で起こされた。
ふたりで遅い昼食をとりながら、死んだ山田さんの件や中村医師の想い出など昨夜のことを妻に話した。
「中村先生ねぇ。私よく覚えている。ほら、私が外科病棟にいたことあったでしょう。そのとき先生に誘われてお昼をご一緒したことがあったわ。普段病棟では磊落(らいらく)で人気があったけれどその時初めて気が付いたことがあるの。あの先生、少し変わっているのよ。その時も愉快に食事をしていたんだけれど急にね、
『君、遺伝子治療って知ってるかい?』なんて言い出したかと思うと目に涙を溜めていたわ。そういうのがあると聞いたことがあると答えたのよ」
信二はうなづききながら聞いていた。
「その時はそれ以上深く話しは進まなかったけれど、その後病棟で急に考え込むことが多くなったわ。病院を辞めるふた月くらい前だったかな。そうそう、生存権って単語も聞いたことがあるわ」
「そんなことが有ったのか。俺にはしゃべらなかったな」何でも話してくれていたのに変なやつだなと信二は不思議に思った。
夜になって信二は中村に電話をしてみた。まだ離島の診療所に勤務していた。お互いのご無沙汰を詫びた後、信二はこの件を問い質(ただ)した。当時のことを中村は時々考えるように間を置きながら話してくれた。
信二は長い電話が終わり、受話器を置いた。それによると、
当時、中村は同僚である小児科女医の伊藤由美からある相談を受けた。
(うちの患者で小学校六年生になる男の子がいるの。名前は佐藤保と言うんだけどね。ふた月ほど前に母親と一緒にやってきて食欲不振を訴えた。いろんな検査をしたけれど特別に病名が付くような結果は出なかったの。適当な食欲増進剤を与えたんですが、ひと月ほど通院をして食欲も回復したので治療が終わったことを告げたところ、その後に遺伝子検査の結果が回ってきた。発病には至っていないが血友病を発症する可能性が高いことが分かったの。母子を呼んでそのことを告げ、検査入院をさせて一週間になるが困ったことに保君が遺伝子治療を拒んでいるんです。最近では話しも満足にしてくれないの)
血友病とは男児出生数の五千人から一万人にひとりの割合で発症する。女性は全血友病患者の一?に満たない。基本的には遺伝病と言われている。血液凝固因子が欠損ないし活性低下による遺伝性血液凝固異常症である。血液の凝固能力が健常者より低く、関節や筋肉内で内出血が起こりやすく、頭蓋内で出血を起こすこともあり放置すると重症化する。大部分は幼児期までに発症するがまれに抜歯などにより始めて判明することがある。
現在では血液凝固因子補充療法が行われ健常者とほぼ同じ生活が可能になっている。数年前から遺伝子治療は臨床試験により高い確率で白血病が発症することが分かっており現在は遺伝子治療の研究は事実上停止されている。
当時今から二十年ほど前、伊藤女医が遺伝子治療の研究をしていることは院内でもよく知られていた。
(何か悩みがあるんだろう。男どおしなら気さくにしゃべってくれるかも。俺が会ってみよう)担当は違うが中村は会うことにした。
(保君、おじさんのこと知ってるかい?)
(知らないよ)
(そうかい、おじさんはねここの外科医なんだ。まぁ、お医者さんだ。名前は中村。君と話したいことがあってやって来たんだ。由美先生は知ってるね。好きかい?)
彼は無言で表情も暗い。
(おじさんは由美先生とは友達なんだ。君の病気について今日は話し合いたい。どうして由美先生の治療はいやなんだい?)