夢と現(うつつ)
由美子を帰し、佳代子は夫婦で入っている生命保険の証書を取り出してきた。私が倒れたとき、こうやってあのひとも証書を見たんだ。
それを見ていると法子が寄ってきて「生命保険?ちょっと気が早いんじゃないの」まだ生きてるのに、と言いたげに言った
「違うのよ。私たちの保険には癌の特約が付帯(つ)いてるのよ。ほら見て」佳代子が差し出した。
それによると信二の場合は癌の診断を受けたらすぐに二百万円の一時金が支払われることになっている。癌治療の入院には一日、一万五千円が支給されるとも記(しる)されていた。
「へぇー、すごいね。そのお金は何に使うの?」
「これはね、保険の効かない高額な治療なんかに使うのよ。でもね、おかあさんは別のことに使わせてあげたいと思っているの。治療費は貯金をはたいてでもしてあげる。おかあさんもまた働くし」この家だって売り払ってもいいと佳代子は思った。
「なにを?」
「そうね、おとうさんが動けるうちに世界一周なんてどうかな?」
「足りないんじゃないの?お母さんも付いて行くんでしょう」
世界一周とは言ってみただけでもっと有意義な使い方がある。それは何だろうと佳代子は考えていた。死にたくはなかっただろうに。また涙が溢れてきた。自身の罪が大きく圧(の)しかかり佳代子は絶望の淵に立たされていた。
佳代子を帰した後、信二は考えていた。小野田医師が言った余命はもっと短いだろう。元気に動けるのは半年も無いはずだ。枕元に吊るされている『主治医 小野田先生』と書かれた札を信二は指で突っついて呟いた。「先生よ。無駄な延命治療はするなよ」
必ず良くなると言って、死期を知らさなかったことを悔しがり我が子をまくら元に呼び寄せたホスピスでの若い母親の姿が思い出された。
真(ま)正面(しょうめん)から死に向かいあおう。これからは今までに経験したことの無いサプライズがあるはずだ。死を目前にしたからこそできることがきっとある。限られた時間をどう使おうかと信二は考え始めた。いつかやってくるとは思っていたがこんなに早く訪問されようとは考えてもいなかった。
生命(いのち)の終わり方にはどんなパターンがあるのだろうか?
災害や事故で死ぬ。病気で死ぬ。戦争もある。殺される。自殺する。おおむねこんなところか。
自殺といえば年間、日本では約三万人のひとが自ら命を絶っているという。これらを救おうと政府や自治体が乗りだしていると何かで読んだことがある。自殺を思いとどまったひとの話しも紹介されていた。
いろんな説得があったがその人を思いとどまらせたのは『あなたが死ぬと寂しい』のひと言だったという。どんな物質的な支援よりも訴えるものがあったのだろう。自分を必要とする人がひとりでもいたら、ひとは自ら死ぬようなことをしてはいけないと言った言葉も思い出した。
自殺は思いとどまってやり直すことができる。しかし、自分はそうはできない。死は一方的にやってくる。待ってはくれない。
待てよ、自殺という行為は人間だけが実行する。それ以外の生命には有り得ない。その他の生命は弱肉強食の仲で消えていく場合が多いだろう。殺されるのだ。
自分たち人類は多くの命を日常の中で奪っている。それは空腹を満たすために『食べる』という目的だけで殺す。牛も豚も魚も、そして植物も。
かつて狩猟生活をしていた時代には人類も野生の一部として共存しており、必要な分しか殺さなかった。今では余分に殺して保存する知恵も身に付けた。 飼育や養殖、栽培と称して殺すことを目的に命を育てる。残酷なものだ。
『いただきます』とは正に『いのちをいただきます』ということだろう。自分もたくさんの命をいただいてきたんだな。初めてこんなふうに考えることができたのも死を目の前にしたからできることなんだろうと信二は不思議に思った。
健常者にはできない物事の考え方は他にもきっとあるはずだ。死を宣告されて失うものが多いだろうが、宣告されたからこそ見えたり得られたりするものがきっと有るに違いない。
災害や事故、戦争などで突然失われる命にはそれを感じることさえできない。それができるということは、むしろありがたく思うべきではないか。そう考えると信二は沈んでばかりいられないなと感じた。
『あなたが死ぬと寂しい』と言われて自殺をやめたひとがいるとか。死んでいくことをやめることができない自分には何をよりどころにしようか?何が一番寂しいのだろうと信二は考えた。ひとりで死ぬことは寂しいことだが、だからといってだれも付き合ってはくれない。
そうだ。『忘れられること』が一番辛い。「ようし」と信二は身構えた。
フライング
所詮、時期を同じくして死ぬことはできない。自分が先に逝くことは順序としては良い事だが、ちと早すぎる。それも現実ならば受け入れるしか無かろう。
とにかく明るく行こうと信二は決めた。佳代子も努めて明るく振舞おうと決心した。
翌日、佳代子は二人前の特上寿司を持ってやってきた。
「おっ、来たな。待ってたよ」
「高かったわよ。へそくり、はたいちゃった」こう言って佳代子は寿司桶を広げた。
「江戸屋のじゃないか。あそこのは旨いとの評判だ。奮発したな」と信二は喜んでみせた。箸を運びながら「お前も食えよ」と促した。
「うん。でも今は胸がいっぱいで。そうそう、あなた雲丹が好物でしょう。私のも取って」
信二は佳代子の桶まで箸を伸ばしたが、思ったほど食えない。さほど食欲も無いのだ。好物の雲丹やまぐろをつまんでもさほど旨いとも感じなかったが「さすがに旨いね。ちょくちょく頼むよ」と嬉しそうな表情を見せた。
その割には食べる量が少ないことに佳代子は心を痛めた。
「おとうさん、ゆっくり時間を掛けて食べたらいいよ。食べながら聞いて」と佳代子が生命保険の一次金の話しをしだした。
「こんな時のために掛けてきた保険よ。二百万円、あなたのために有意義に使いたい。保険の効かない高価な薬や治療に使うのもいいけれど、あなたがやりたいことに使うのが一番良いと思うの。何か希望はある?」
「急に言われてもな。何だかすぐに死んでしまいそうな言い方だな。当たらずとも遠からじ、ってとろだけどな。考えとくよ」
「ふふっ、私にひとつのアイデアがあるの。少し恥ずかしいけど言ってもいい?」
信二がうなづくと佳代子はとっぴなことを言い出した。
「あなた浮気したことある?私以外の女のひとを抱いたことある?正直に言いなさい」
昨夜、佳代子はひとつの答えを出していた。もうすぐ死んでいくであろう夫には『男(おとこ)冥利(みょうり)に尽きる』ことをさせてやろう。それが少しでも詫びになれば自分も僅かに救われると感じたからだ。
信二はびっくりしたような顔をした。
「何を言い出すかと思えば、とんでもない質問だな。
お答えします。
浮気は無いが、遊んだことはあるよ。お前と結婚する前だが、特殊浴場に行ったことがある。今はソープランドと呼ばれている所さ。そうだな、友達と連れ立って四、五回行ったかな。だけどそんなこと聞いてどうするんだ?」