夢と現(うつつ)
「まだよ。あなたから知らせて。あっ、それから帰りに病院に寄るように。東病棟三階の三〇五号室よ」
夕方、佳代子が必要なものを持って病室へ行くと信二は点滴を受けながら眠っていた。やがてふたりの娘も駆けつけてきた。
「お父さん。お父さん」と二回、法子が呼びかけた。
「あっ、お前たちか。心配を掛けたな」と信二が起きた。
「あしたは気道から内視鏡を入れて組織の一部を採るそうだ。しばらくは検査漬けだよ」
「心配しないで。みんな付いているんだから。タバコやめようね。何か欲しいものはない?」由美子がそっと信二の頬を撫でた。
「検査したらあんがい大したことじゃ無いってことかもよ。少しゆっくりしなさいって神様が休暇をくれたかも」法子が満面の笑顔で励ました。
信二は家族のありがたさを感じながらも、良い検査結果であってほしいと願わずにはいられなかった。
付き添うと言う佳代子に信二は「子供じゃないんだから、心配いらん。そんなことをされたら重病人みたいじゃないか。帰ったらいいよ。全ては検査結果が出てからだ」と言ってみんなを帰した。
健康だと思っていたのに。まさか自分が・・・・
絶望と希望
翌朝、佳代子は朝早くからやって来て信二の検査に付き添ったりして一日中病院にいた。夕方には娘たちもやって来た。
「どう?検査の具合は?」娘たちが尋ねた。
「結構、辛いものだね。おとうさんはあまり病気をしたことが無いので、こんなに検査というものが患者にとって大変なことだとは思わなかった。重労働だよ」
「頑張ってよ、それではっきりしたら安心できるんだから」みんなが励ました。その後も、いくつもの検査が連日行われ入院して五日後にまず佳代子が担当医に呼ばれた。佳代子が勤める病院長の後輩である小野田医師だ。
「奥さん、残念な結果をお伝えしなければなりません。抽出した肺の病巣部組織の検査結果は悪性の腫瘍でした。もっと悪いことに肝臓にも転移していることが分かりました。肺で酸素を充填された血液は心臓に戻され、そこから全身に送られます。看護婦をされている奥様にはもうお解かりと思いますが進行癌です。
外科的に取り除くこともできますが、それはもぐらたたきのようなもので患者にいらぬ苦痛を与えるだけです。わずかですが、すでに胸部には水が溜まり始めています。加速度的に病状は悪化して行くでしょう」
目の前が真っ暗になり、佳代子はその場に倒れそうになった。『君がしっかりしなければいけない』と言った院長の言葉を思い出し、我に戻って小野田医師に尋ねた。
「どんな治療方法があるのですか?」
「ご主人の病は虫歯と同じで良くすることはできません。どこまで進行を食い止めることができるかということです。
一般的に抗癌剤を投与する科学療法と放射線療法を併用することになります。これらの療法の長所を活かすことを集学的療法と我々は呼んでいます。現在ではかなり高い治療成績が得られるようになってきました。
ところで、治療には患者さんの協力が必要になります。ご本人がよく理解して『治すんだ』という気持を持つことから治療が始まります。告知はどうなさいますか?」
『隠さないでくれ』と言った信二の言葉を思い出し佳代子は即座に答えた。
「告知します。本人の希望でもあります。ただ私からは辛くて言えません。先生からお願いします」
その日の午後に佳代子は信二を伴って小野田医師の元を訪ねた。写真や検査データを示しながら小野田医師は淡々と説明を始めた。信二もまた、表情ひとつ変えずに聞いている。はらはらして心臓が激しく脈打っているのは佳代子ひとりだった。
ひと通りの説明が終わり小野田医師は「何かご質問はありますか?」と信二に尋ねた。
しばらく考えた末「このまま何もしないでいるとどれくらい生きられますか?」と信二が問うた。
「それは何の治療もしないという意味ですか?」
「そうです。私も医療の現場で働く身です。何を聞かされても驚きません。真実が知りたいのです」
「分かりました。おそらくは三ケ月とは持たないでしょう」
「それでは、先生の言われる集学的治療を受ければどうですか?」
「個人差もあり現段階では明言はできません。ただし、医者として全力は尽くさせていただきます」
「そのお言葉でかなり深刻な状況であることは理解できます。自分自身の意思で自分の体で、自分のことができなくなるまでの残された時間が知りたいのです」
「加藤さんの真摯な姿勢を尊重して医者としての良心にもたれてお答えします。一年か二年というところでしょう」
「ありがとうございました」信二にはよく理解できた。
「セカンドオピニオンは受けられますか?」小野田医師が尋ねた。
「その必要はありません。先生にお任せします」
はっきりと答えてくれた小野田医師に信二は好感を持った。
「明日には今後の治療について、そのメニューをお伝えします。ご協力をお願いします。任せてください」と小野田は胸を張り、右手を差し出した。信二もそれに応えて、ふたりはしっかりと握手をした。
横では佳代子がしゃくるように泣いている。
病室に戻ったふたりは交わす言葉も無く、無言で向き合っていた。佳代子の頭の中は混乱しまくっている。一方の信二はベットに座り目を閉じて動かない。
その沈黙に耐えられなくなった佳代子がしぼり出すように「ごめんなさい。許してください」と床に両手をついた。
それを無視するように「もう帰ってくれないか。子供たちにも今日は来ないように伝えてくれ。今夜はひとりで考えてみたいことがある」と信二が頼んだ。
その表情に佳代子は怯えた。もう二度と来るなと言われた気がした。あのことがどんな影を落とすのだろう。
佳代子の不安を読み取った信二はすぐに笑顔を作って「明日のお昼はふたりで寿司を食べよう。特上のにぎり寿司を二人前持ってきてくれ。帰りに詰め所によって明日の昼食は断ってくれないか。食事の制限が始まるかもしれない。その前に食ってやろう」精一杯甘えるような仕草をした。
「おとうさん」と小さく佳代子がつぶやいた。
佳代子は由美子に電話をした。
「検査の結果が出たのよ。今夜来て」
元気の無い声に由美子は何かを察した。その夜、法子の帰りを待ってふたりを前に佳代子が伝えた。泣きながら話す佳代子を見てふたりもまた涙を流して聞いている。
「それでお父さんはどうだった?」法子が訊(き)いた。
「今夜はひとりにしてくれと言って私に帰れと言ったわ。今後のことを考えるんじゃないかな。でもね、笑顔を作って食事の制限が始まる前にお寿司が食べたいから明日買って来い、って精一杯気遣ってくれた。反対なのにね」
それを聞いた由美子が「何となく意味(いみ)慎(しん)だね。それだけで気遣ってくれいてるのが分かるなんてさすがだね。私なんか旦那の言葉だけじゃそこまで分からんわ」見直したように言った。
そりゃそうだろう。あのことが有った現実とそれを知りながら許された環境が無かったら、そうは受け止められなかっただろうと佳代子は思った。まずは治療に専念してもらおう。そのために家族ができることは全部してあげようと三人は約束した。