夢と現(うつつ)
そんな時間を過ごしている時に佳代子は、『夫に養われている』という実感を味わった。犬や猫ではない。妻として母としての役目はどうすれば果たせるのかを考えるようになった。まして夫は自分の不義密通を許してくれた。それにどう応えたらいいのか結論が見(みい)出せない。まずはできることからやろう。
そう決意すると料理番組を見たりして、今まで作ったことも無い料理に挑戦して仕事を終えて帰ってくる信二を迎えるようにした。
「へぇ、こんな料理もできるのか」と信二も喜んでくれた。
娘たちも「お母さんが病気してからふたりとも以前より、すっごく仲良くなったじゃない?私たちお邪魔かしら」と冷やかす。
傍から見れば仲の良い夫婦に写っていることだろう。しかし、ふたりには仲良く振舞うために越えなければならない高いハードルが有った。あの件に関してはふたりともしっかりと口に封印をしている。
佳代子にしてみれば、なにかの弾みでいつか信二が封印を破って襲い掛かってこないかという不安が付きまとう。
一方の信二も、虫の居所が悪く酔ったときなどにぶちまけたりしないかと自信を無くすときがある。自分が佳代子に示した考えは決して詭弁やまやかしではないと思っている。しかし、かなりの無理が有ることも自覚していた。
定年までちょうど半年になった三月末に信二は事務長に呼ばれた。国が指導する定年延長に従い、その後も継続して六十五歳まで雇用するとの通達だった。
身分は嘱託になり、給料はおよそ三割減ることになる。その条件で残るか、辞めて他を探すかの判断は信二に委(ゆだ)ねられた。遅くとも定年を迎えるふた月前には決めてほしいとの要請だ。
三割の減収は辛いものがある。帰宅しても今の佳代子には言えない。すぐに勤めに出ると言い出すだろう。良い条件で迎えてくれる転職先を探してみようと信二は考えた。
そんな時期、ホスピスでちょっとした騒動が持ち上がった。ふたりの入院患者が憲法論争を始めたという。改憲と護憲でもめているらしい。ことの発端は政治家のテレビ討論を見てからだ。
同じ病室でベットを並べるふたりは日夜を問わず激論している。ふたりとも自力では起き上がることすらできないのに。終末期を迎え、自身の僅かな余命も知った患者が憲法を論じる姿なんてちょっと微笑ましい。担当医も好きにさせている。事実、憲法論争を始めてからは、ふたりの顔色でさえ良くなったという。
信二はふたりに会って話しを聞いた。ふたりとも先の大戦には従軍しており、護憲派の老人は一兵卒で、改憲派は将校だったという。憲法第九条で意見が対立している。
改憲派の老人の言い分はこうだ。
自分は戦争を肯定するものではないが、今の憲法は占領軍のGHQ(連合軍総司令部)が作成したものを押し付けられたものだ。敗戦国の日本はこれを拒否することができなかった。米軍が指導権を持つGHQと日本とでは文化も習慣もそして価値観も違う。
一方は唯一被爆した国であり、もう一方は唯一原爆を投じた国だ。そしてその国は現在も軍隊を持ち、他国までも干渉している。そして敗戦国には戦争を放棄しろと言うことは当時としては止むを得ない部分はあったと思うが、それは自分たちに都合の良い理想的な憲法を押し付けたんだと思う。
しかし、半世紀以上経過した今は周りの状況も当時とは違う。近未来に日本が戦火に巻き込まれそうになる状況だって充分有り得る。そうなったときに現憲法で国民を護ることはできんだろう。
確かに九条があったから戦争に巻き込まれなくてやってこられたことは幸せなことだと思う。でも、日本だけが平和ならそれで良いのかという疑問を持つ。
場合によっては『有りうる』という観点に立って今の日本に合った憲法に作り替えるべきだと考える。
これに対して護憲派の老人は切り返す。
当時『敗戦』ではなく『終戦』と表現したことに意義がある。敗戦は巻き返すために再び戦争を始めるという考え方じゃないか。一方の終戦は、正に『終わった』ということだ。
大義名分がどうであれ、合法的に人と人が殺しあうのが戦争だ。戦争を始めるのは人ならば、それを終わらせるのも人のはずだ。ならば、戦争は絶対にしないと宣言するのも人であっていいはずではないか。
いかに効率良く大量に人を殺せるかを宣伝(うたい)文句にして、世界に武器を売りまくっている死の商人もそこら中にいる。民族や宗教、肌の色が違っても、殺されても良い人間なんかはどこにもいない。完全に交戦権を否定した九条は世界に誇れる平和憲法だ。変える必要は無い。
聞いていて信二は身震いがした。第一線で活躍する政治家の討論かと勘違いする。
発する言葉には力が無くて弱々しく、詰まりながら話すのだが内容は中々どうして、このまま新聞記事にしてもいいくらいだ。自身の生命(ひ)が消えるのを知りながら発言しているところに意義がある。どこかの大臣にも聞かせてやりたいと信二は思った。
ふたりの討論には結論が出てはいないが、明日も、来週もそして来月も続いて欲しいと願い信二はふたりに礼を言って辞した。
定年後、収入が減ることをどうしようかと案じている自分が恥ずかしく思えた。全く自分のことしか考えていない。しかし、なぜだかは分からないが勇気付けられた。この話しは帰って家族みんなにしてやろう、いい土産ができたと信二は喜んだ。
家に帰ると由美子が孫を連れて来ていた。
「近くまで来たから寄らせてもらったの。旦那は会社の飲み会で今夜は遅いし、ゆっくりしていくから」
孫を抱いて信二も喜び、そのまま孫を連れて風呂へ入った。風呂から出ると夕飯の支度ができており、食卓へ付いたときには法子も帰ってきた。六人で食卓を囲んだとき、信二は自然に微笑んだ。幸せなことだ。今日の憲法論議を思い出した。戦争が無く、今の平和が続くならば憲法を改正してもしなくてもどちらでも良いと信二は思った。そしてその話しを始めた。
「どうだ、すごいだろう。もう明日にも死ぬことが分かっているひとが論じているんだ。おとうさんは感激したのと同時に、少し恥ずかしくなった。自分だったら、後に残される家族のことや、やり残したことのへの悔しさしか考えられないだろう。ふたりとも実際に戦争に参加した人たちだけに迫力があった」
話し終えて信二が感想を述べた。初めに由美子が口を開いた。
「確かに立派ね。でも明日死んでいくひとがどんなに雄弁に訴えても何ができるの?何をしてくれるの?
お父さんたちもそうだけど高齢化世帯は急ピッチで増えている。それを支えるのは私たちなんだけれど、支える側の数は小さい。負担は大きい。年金だって払わない人が増えている。
国の借金は国民一人当たり数百万円と聞いたわ。普通の会社ならとっくに潰れているよ。それをこさえたのはこれから支えてもらおうとしているひと達でしょう?それをやってきた政治家を選んだのもその人たちじゃない。死ぬ直前になって言うくらいなら、まだ動けるうちになんとかしてほしかったよ」冷めた顔で由美子が言った。