夢と現(うつつ)
佳代子は自身を責め抜いていた。そしてあの手紙を早く信二が読んでくれることを願い、その後は地獄に落ちることを善(よ)しとした。
信二は喫茶店で悶々としていた。二杯目のコーヒはすでに空になっている。灰皿には吸殻の山ができている。タバコを切らしたので店内の自販機で買おうと思い立ち上がったところ、財布が無いのに気付いた。忘れて来たんだ。やはり動揺していると自身で感じた。歩いて五分にも満たない距離だ。店の主人と思われるひとに事情を話したところ親切な応対をしてくれた。
「お金なんかいつでもいいですよ。今度寄られたときにでもお支払いください。それよりこれで良かったらどうぞ」と自分のタバコを差し出してくれた。
一本もらって火をつけてから信二は電話を借りて佳代子に持って来るように頼んだ。外はまだ冷たい。病み上がりの佳代子には負担だろうと思い「ゆっくりでいいから暖かくして来いよ」と労(いた)わりの言葉も忘れなかった。佳代子がやってきた。
「携帯電話も忘れているんだから、どうかしてんじゃない?」怒ったような言い方だが表情は緩んでいる。
「パチンコはどうでしたか?」と厭味(いやみ)も飛び出した。
「まぁいいじゃないか。お前も何か頼めよ。暖かい飲み物なら問題ないだろう」
「そうね、紅茶をいただくわ」と言って佳代子が座った。そして羽織っていたジャンバーを脱いだ。その仕草が信二には妙に新鮮に写った。こうやって喫茶店で向かい合うのが遠い昔にあったような気がしたせいもあるんだろう。
こいつも悩んでいるんだろう。信二はここで自分の持っているボールを佳代子に預けようと決めた。
「ちょっとな、お前に話しておきたいことがあるんだ。かなり遠まわしな言い方をするかも知れないが、ただ聞いてくれたらいい。そして約束してほしい。一切の質問はしないでくれ。何も聞き返すなということだ。話しの行間を読みとってほしい」
「それはどういう意味なの?おかしいわよ」佳代子が怪訝(けげん)な表情をした。
「何も聞くなって言っただろう。口を開くな」信二が突っぱねた。そしておもむろに切り出した。
「世の中には善と悪、白と黒があるだろう。もちろん悪を許すことはできないし、黒は白には見えない。しかしな、真っ黒もあれば灰色に近い黒もある。保身がゆえに権力を振りかざしたり、飴を舐めさせてそれを封じる輩(やから)も多い。弱みを上段に振りかざされたらひとたまりないケースも多いことだろう。
黒を黒だと切り捨てるのはいとも容易(たやす)い。しかし、それをやってしまうと何もかもがぶち壊しになることもよくあるはずだ。それは見るひとの感性にもよると思うが、自分がそっと横を向きさえすれば何事も無かったように流れて行く。ぶち壊すことが本意ではなければそれもできると思う。
決して悪を見逃すのではなく、その核心を負う者がその真意を知ったときに尊重しあえる関係が生まれることもあるはずだ。もっとも、どちらも辛い決心が必要になる」
信二は、まずここまでしゃべって佳代子の表情を見た。佳代子は瞬(まばた)きもしないで信二を見つめている。
佳代子には信二が、何が言いたいのかその核心が理解できた。全て辻褄(つじつま)が合う。ひとりでは見舞いに来なかったことや、自分が話そうとすると逃げたこともうなづける。
この主人(ひと)は自分を許そうとしている。そしてあのことは語るなと言う。佳代子は熱いものがこみ上げてきて、今にも涙が溢れそうになっていた。
「水清ければ魚住まず、ということわざがある。清濁併(あわ)せ飲む、とも先人たちは教えている。白と黒の中間に身を置くと視野が開けることも多いはずだ。
佳代子はラグビーやサッカーのゲームを見たことがあるだろう。どちらのルールにもオフサイドという反則がある。これを冒すと相手にフリーキックなどのアドバンテージが与えられる。
オフサイドとはゲームに参加できないポジションのことを言うんだ。その位置にいてもプレーに参加しなければ反則は取られない。俺たちは今、このオフサイドのポジションにいるんだ。動かなければいいんだよ。
これらのゲームが終わるとき、審判がそれを知らせる笛を吹く。これをノーサイドのホイッスルと言うんだ。ノーサイドとは勝者も敗者もお互いの健闘を称(たた)えあうことを言うんだ。激しくぶつかり合ったことも水に流してな」
うまく言えたと信二は思った。これで解ってくれ。
一方の佳代子の目からは大粒の涙がこぼれている。しっかりと行間が読み取れた。
「ごめんなさい。おとうさん」蚊の鳴くような佳代子の声だった。
そのひと言で充分だ。
「何も言うなと言っただろ。ノーサイドなんだ」
自分だって決して満点の人間じゃない。 許し合い、かばい合う思いやりの気持がきっと前途を開いてくれる。これでいいんだ。信二は自身に言い聞かせた。
そして法子の示してくれたあの直(ひた)向(むき)な優しさに感謝した。
佳代子も大きな責任を背負ったことを自覚していた。
安楽死と尊厳死
信二は佳代子に仕事を辞めたらどうかと勧めた。今回の病気から完全に回復するにはかなりの時間がかかる。小さくなった胃袋が満足な食欲を取り戻すにはまだまだ先になる。今、中途半端なことは避けるべきだ。贅沢をしなければ信二の収入だけでやっていける。
「すぐにでも辞める手続きをしてこいよ。しばらくは静養に専念することだな」
信二の提案はありがたいが、例え僅かでも収入が減ることには家計を預かる佳代子にとっては深刻な問題だ。
「そう言ってくれる気持ちはうれしいけれど、まだまだお金がいるのよ。おとうさんは半年後には定年になる。その後は嘱託かなんかになるんだろうけれど給料は間違いなく減るでしょう。六十歳からの年金なんてしれたものだし、家のローンだって残っている。法子はまだ学生よ。少しでも蓄えを増やさないと」自分は看護婦だからその知識で判断しても回復は順調だと佳代子は反論した。
「だからと言って、すぐに復職できる訳でもないだろう。無理をしてまた倒れたりすると病院にも迷惑がかかる。まして一番辛い想いをするのはお前や俺たち家族だ。ここはいうことを聞いてくれ。元気になったときにまた考えればいい」
経済的な不安はあるが、信二の説得に佳代子は従うことにした。事情を話して退職を願い出ると、院長は暖かく応じてくれた。
「なにも辞めなくてもいいんじゃないか。しばらくは休職扱いにしておこう。そうすれば厚生年金や社会保険もその間は継続できる。しっかり養生しなさい」
佳代子は専業主婦になった。出産の前後数ヶ月は仕事を離れたことはあるが、それ以外には経験が無い。
家事と週一回の通院だけが日課となった。昼間はテレビのワイドショーやドラマを見て時間を費やす。芸能人のスキャンダルなど興味本位の内容が多いが、年金の話しや政治討論などもあって、今までに経験したことも無い知識なども吸収したりする。