夢と現(うつつ)
一緒に喜んであげる思いやりを花本は教えてくれた。そして後からは取り返せないとも言っていた。そうなんだ、過ぎ去った時間は戻せない。佳代子が隠す決断をした季節(とき)には戻れない。
信二は自分をさほど聖人君子だとは思っていない。まして人生を説く牧師でもない。平穏なときは良いだろう。だが、なにか逆境が来たときにぶちまけてしまうのではないだろうか?決心はしたものの、信二は迷いを否定できなかった。
オフサイドとノーサイド
佳代子を見舞いに行く前には必ずふたりの娘に電話した。どちらかが病室にいれば自分が行くまで待たせ、どちらもいないときはどちらかを誘って行った。
どちらも都合がつかないときは行くことをやめた。
「ひとりで行ったらいいじゃない」と娘たちから面倒くさそうに言われたことが何度かあったが「ひとりより、多い方が楽しいだろう」とごまかしながら信二はこのことをやりとおした。
三週間が経過したころ佳代子が退院してきた。
信二にとって法子とふたりっきりで過ごした三週間は意義有るものだった。今まで味わったことの無い心の交流ができた。
法子も父親の存在について理解できた。時には子供のように見えたりして、母性本能をくすぐられる場面なんかに遭遇して楽しかった。法子の父親は自分しかいないと確信できたことに信二も喜びを覚えている。
しかし、佳代子が不在だという現実は不便な面も多いと信二は感じた。いずれ帰ってくることが分かっていたから耐えることもできたが、もしこれが死んだりしたという現実だったらどうなんだろうか?ふたりが揃って死ぬなんてことは、事故か災害にでも遭わなければ有り得ない。ほとんどの場合はどちらかが先に逝く。どちらかが後に残される。どっちだろう?願わくば男が先に逝くべきだろう。
自分にも確実に死が待ち受けている。それはいつなのか?それまでにどれだけの時間があるのだろうか?特別悪いところも無い。年に一度受ける健康診断でも特に指摘されるようなことも無かった。走ったりする体力の衰えは認めるものの、自分は健康な方だと思っている。それがある日突然訪れるのは勘弁願いたいと思う。
佳代子が退院してからはふたりっきりになることは頻繁に有る。佳代子はあのことを切り出すタイミングをいつも見はからっている。今の信二にはそのことが一番苦痛だった。
『自分は水に流すからお前も忘れろ』とよほどまで口に出かかっていても切り出すことができない。あくまでも自分は何も知らないことで通したい。それが一番いい方法だと考えている。自分の気持を自然に感じ取ってくれないかと願った。佳代子が切り出しそうになると話題をそらしたりその場を離れたりしてごまかした。
佳代子も辛かった。夫は知っているはずだ。それなのに責めようともしない。自分は謝罪しようと思っているのにそれすらさせてくれない。このままでは済まされない。詫びなければ夫に申し訳ない。佳代子は決断した。
裏切りの経緯と謝罪を手紙にして渡そうと思い筆をとった。まず謝罪、裏切りの事実、そして最後にも謝罪の気持を述べどんな罰をも受けることを添えた内容は便箋七枚にも及んだ。そして封筒には『信二様』と毛筆で認(したた)めた。
信二が非番の朝、法子が出掛けた後に佳代子は手紙を差し出した。
「これ読んで」
見事な毛筆で『信二様』と書かれている文字を見た瞬間に中味が分かった。
「うん、後で読むよ」と言って手紙を戸棚の引き出しに入れた。
そして新聞を広げて「コーヒを頼む」と言って信二は努めて平静を装った。
綺麗な文字だ。今さらながら感心した。その習字が接点になって始まったんだ。ひとりで背負う決意をしたにも拘(かかわ)らず、怒りにも似た感情がこみ上げてきた。それは裏切りを責める気持ではない。
『こうまで決心した俺の気持がお前には分からんのか。どうしても事実を明らかにすると言うのか』という信二の心の叫びだった。新聞は眺めているだけで活字などは一行も追ってはいなかった。
佳代子も戸惑った。普通なら手紙を手渡したときに『お金かい?』とか『何だ?これは』とか言うはずなのに、中味について何も問わない信二の態度に複雑な思いがこみ上げてきた。
「パチンコでもしてくるわ」と言って信二は出かけた。
佳代子は時計を見た。まだ八時過ぎだ。パチンコ屋なんかまだ開いているはずがない。やっぱり変だと佳代子は思った。
パチンコと言って出掛けたものの、信二も時計を見て苦笑いをした。仕方なく近所の喫茶店に入った。コーヒを頼み、窓の外を見ながら考え事を始めた。
佳代子が告白すれば法子が苦しむだろう。傷つくだろう。あの娘は自分の家庭に形を変えることなく永遠に存在してほしい。事実を追求すれば全てが壊れ、全てを失う。それだけはなんとしても避けなければならない。
しかし、このまま佳代子とのすれ違いを演じるのは疲れる。さてさて、どうしたものか?と信二の思考は堂々巡りしていた。
佳代子は佳代子で考えていた。自分は本当に悪い女だ。
信二との結婚は新井哲夫との破綻で、やけくそ半分だった。ここまでは若気(わかげ)の至りで済ませることができる。しかし、結婚しても一年は関係を続けていた。哲夫の結婚生活があまりにもひどく男としての欲望も満たしてくれない女と聞いて、あのひとを満足させてあげるのは自分しかいないと思い込んだ。
信二に対して後ろめたさはあったが、そう長い間では無いだろう。若い男女が一緒に暮らしていれば自然な形で接点ができるだろう。そう考えたが、一年が経過しても正常な形にはならなかった。
明美先生に引導を渡されて別れたように哲夫は思っているはずだがそうではない。哲夫夫婦の関係を破壊しているのは自分に原因があると佳代子は考え出した。自分がいるから哲夫は京子さんの元へ帰ろうとしない。明美から惜別を約束させられて半年ほどしてから気付いたのだ。それは身近にいる信二の影響も大きかった。
それからは手紙も書かなくなった。どうせ書いても返事はもらえないんだから。自分を恥じて信二の妻として出直そうと決心したはずだった。
それは突然の再会だった。今になって思えばなぜあのとき哲夫を避けなかったんだろう。 哲夫の宿へ行き、京子に逃げられたという話しを聞いて、その時はなんとひどい女なんだろうと思った。そして懐かしさのあまり求められて体を許した。たった一度の関係で哲夫の子供を宿し、そのことを隠し通した。
自分こそがひどい女だ。宿った子供の命を護ると主張した自分の思いは偽りではない。それが大義名分ならばそのときに全てを打ち明けて、許しを請(こ)うこともできた。離婚されて放り出されたかも知れない。しかし、それは裏切った事実への見返りである。甘んじて受ければ良かった。そうすれば裏切り通すことは避けることができた。
信二や由美子には本当に申し訳ないことをしてしまったと思うと同時に、それ以上に法子にすまない。命は護ってやったが、自分が裏切りの背景を背負って生まれてきたことを知ると法子の落胆は計り知れない。罪深いことをしてしまった。