夢と現(うつつ)
有頂天になっていた花本は迷わずに大金を投資したという。投資した金額の何倍もの現物が動く。買ったのが値下がりしたり、空売りと称して売ったのが値上がりして支えるのにまた大金が要(い)る。後はお決まりの転落コースを転がった。
「わしが他人の幸福を喜ぶことができなかったのと同じで、寄って来る人間はわしの利益を喜んでいたわけではなかった。自分のことしか考えていないことに気付いたときはもう遅かったよ。他人の幸福を一緒になって喜んであげるこころ根を持ち合わせていたら、きっと見破ることができたと思っている。
その後は借金に追われ、家族にも見捨てられて大阪へ逃げるように帰ってきた。そして病に倒れ癌の宣告を受け余命も僅かに一年と聞かされた。
手遅れだったんじゃ。妬(ねた)み多い人生には自分自身を労(いた)わる配慮もできなかった。自分を大切にできない人間に他人を大切にできないことも知った。病に倒れたら何もしてやれんもんな」
身元保証人もいない花本は僅かに手元に残った有価証券を売って、その金を預けてここに入れてもらったという。
「今朝、先生のうれしそうな顔を見たとき一緒に喜んでみようと思った。ここのみんなの親切に触れて素直にそんなふうに考えられるようになった。そのことがどんなに楽しいことなのか。やってみたいんじゃよ。先生が当たったくじの話しをもっとしてくれよ」嬉しそうな表情で花本が訴えた。
自分だって同じじゃないかと信二は思った。他人の幸福はやはり妬(ねた)ましく感じる。一緒になって喜べるかどうかは、その幸福の大小にもよる。年末の福引に当たった程度ならそれこそ一緒に喜んであげられる。しかし、宝くじに当たり億単位の金を手にしたと聞いたらどうだろう?たぶんできないだろう。しかし、花本老人が言っているのは、事の大小や銭金のことではなさそうだ。
死期を知ったからこそ自身の人生でできなかったことをただ純粋にやってみたいと思っているんじゃないかな。そう考えて信二は話すことにした。
「花本さん、私はお金では買えない幸福に当たったんです」と切り出し、内容は言わなかったが大きな苦悩を抱えてひとり苦しんでいるときに示してくれた娘の気配りが嬉しかった。そして娘を見直し、素直に感謝できることに幸福を感じることなどを話した。
「それは良かった。あの笑顔はそうだったんですか?良かった、良かった。本当に嬉しかったんだね。お礼と言っちゃなんだが、今わしが痛切に感じていることを話そう。少しでも先生に役立てばもっと嬉しいからな」
花本によると『幸福のほとんどは金で買える』と言う。金では絶対に買えない部分がある。自身の失敗を手本にしてほしいと花本が訴えた。
「その買えないものとは、真の友人や家族の愛情そして健康などじゃ。それを手に入れるか入れないかで天と地の差ができる。わしはそれを手に入れることができなんだ。
例えば小学生の子供に愛情を注いでやれんかったことを後で気付き、その子が大人になってから繕(つくろお)うとしてもできんだろ。その時々を見逃してしまう。しかし神経を張り巡らしていないとその瞬間が分からんというもんじゃないと思う。そういう習慣が有ればいいんじゃ。相手の良い面を見つけたり、一緒になって喜んであげることができたら自然に身に付く習慣だと思う。
残り僅かの寿命(いのち)だが、わしはやってみたいんじゃよ。先生やみんなに感謝しながらな。しかし、残念なことじゃ。もっと早く気付くべきじゃった」
こう言って、花本は信二に礼を述べた。将棋の勝負はつかなかった。
ひとは死を目前にして初めて、悟るのだろうか?ここ半年くらいの間にいくつかの体験を聞かせてもらったが、そのいずれもが死に向かいあったからこそなんだろうと信二は確かに感じとっていた。
定時に仕事を終えて佳代子の病院へ向かいながら信二はどうしたものか考えていた。夕べの法子の気配り、今日の花本の体験などが頭をよぎっている。そして信二自身も平凡であることの幸せを感じとった一日だった。 佳代子には普段流で接しようと病室へ入った。娘たちも帰ったのか佳代子ひとりだ。
「よう、元気そうだな。何か食えるようになったかい?」信二は努めて明るく声をかけた。
「明日からおもゆだって」
「それはいい。傷口は傷むかい?」
「痛いわよ。咳をしたり笑ったりすると痛くて。でも甘やかしてはくれないわ。トイレなんかも自分で歩いて行きなさいって言われるのよ」佳代子が傷口をさするような仕草をした。
「退屈だろうが今は病気を治すのが仕事だと思って頑張るんだな」
「退屈はしないわ。今日も朝から法子がやって来て、さっきまでいたのよ。昼前には由美子も来てお寿しの出前をとって、私の目の前で食べるのよ。デリカシーが無いんだから。そんなこんなで時間が潰れてあっという間に夕方になったのよ」
「それで、法子は何か言ってなかったかい?」
「言ってたわよ。夕べセミヌードでお父さんを脅かしてやったって。どうでしたか?法子の裸は?」
全てを話して詫びるタイミングを佳代子は窺(うか)がっていた。
「分かりきったことを聞くなよ。くたびれたお前の肌よりよっぽどか見ていて楽しかったよ。あれが娘でなければちょっと興奮したかもな」
(しまった)と信二は思った。
ここぞとばかり佳代子が切り出しだ。
「そのことなんだけれど、おとうさんに聞いてもらいたいことがあるの。ちょっとそこに座って」
「いや、今日は忙しいんだ。法子も夕飯を作って待っているはずだ。帰る」
「何で。今来たばかりじゃないの。聞いてくださいな」
「時間が無いと言ってるだろ。退院したらゆっくり聞いてやる。覚えていたらな。どうせつまらん話しだろうが」信二が懸命にごまかした。そして慌ただしく帰って行った。
危なかった。もう少しでややこしくなるところだった。信二が気付いたことは、佳代子は悟っているはずだ。しゃべらしちゃいかん。絶対に告白させてはいかん。道々、信二は考えた。これからは誰かと一緒に行くか誰かがいるときを狙って行こう。佳代子とふたりっきりになることは避けよう。
家に帰ると法子が待っていた。
「お帰りなさい、お父さん。お風呂沸いてるわよ」
「お前たち、今日病室で出前を取って食ったんだって?お母さんが、デリカシーが無いってこぼしていたぞ」
「ふふっ、ちょっといたずらしただけよ」
信二が風呂から出てくるとその後、法子も続けて入った。信二が先にビールを飲んでいると法子が風呂から出てきた。パジャマ姿だ。
「残念でした。昨日のようなマネはしないから。まぁ今夜はクラブではなく居酒屋くらいと思いなさい」法子のおどけるような仕草だ。
楽しい団欒を過ごして、やがてふたりは床に付いた。信二は今日の花本との出来事を思い出して眠れないでいた。
この、あたり前のような平凡な日常を維持するにはどうしたらいいのだろう?自分にとってはそれこそ非凡な努力がいるではないか。
はっきりとは思い出せないが徳川家康が、重き荷物を背負う姿を自身の人生に例えた一節があった。その真似が自分にはできるだろうか?最後までやり通せるだろうか?途中で挫折するなら、初めからやらない方がいい。