夢と現(うつつ)
そこへお父さんが帰ってきた。私の額に手を当ててすぐに服を着替えさせてくれた。そしてお父さんは私を背負って病院まで走ったのよ。憶えてる?
途中で躓(つまづ)いて転びそうになったけれど膝をついてこらえてくれた。病院に着くとお父さんは受付に詰め寄りすぐに診て欲しいと頼んでいたわ。待合室で座っているときズボンが破れて血が出ていた。こんなにまでしてくれたのかと思って嬉しかったよ。
私は肺炎の一歩手前でその日は入院することになった。一晩だけの入院だったけれどお母さんが付き添ってくれた。りんごの絞りジュースなんか作ってくれて、お母さんを独り占めした気分だったよ。
そんなことを思い出していたら涙がいっぱい出てきた。お母さんが倒れたせいもあるとは思うんだけれど私ね、今度生まれてくるときもお父さんとお母さんの子供に生まれたいと考えたよ」本当に涙ぐみながら法子がしゃべった。視線はしっかりと信二の目を見ている。
「ちょっと酔っ払ったか?法子。憶えているよ。あのときの傷は今も残っている。でも痛いと思った記憶が無いんだ。今の法子の言葉は重たいよ。生まれかわるときもまたお父さんたちの子供がいいなんて、嬉しいよ」
信二は戦場で幼児(おさなご)を抱えて走ったという老兵の言葉を思い出した。環境は違うが、ある種の戦場の中で自分も駆けていたんだと信二自身は感動を覚えた。
また自分の子に生まれたいと言う。悩ましい格好で自分を男とは思わないとも言った。それはもう父親以外の何者でもないだろう。
決まった。この子が決めてくれた。執行猶予付きの判決主文は自分が胸を張って読み上げよう。信二は明美先生と法子に感謝した。
平凡
翌朝、信二は気分良く目覚めた。起きて行くと台所に法子の姿がある。
「おはよう。早いじゃないか」
「うん。味噌汁を作ろうと思って早起きしたの。お母さんの味にはかなわないけど食べさせてあげる。
私、今日休みなのよ。朝から病院へ行ってくるわ。お父さんどうする?」
「仕事の帰りに寄るよ。そう伝えておいてくれ」
信二は気持ちよく出勤した。普段と変わらない仕事が始まった。午前中は放射線治療にやって来る患者が多い。ほとんどが車椅子で看護婦や介護士に連れられてやって来る。毎日同じ顔ぶれだ。何の変化も無い。
今日の信二はそれが嬉しかった。毎日が判で押したように繰り替えされることがいかに大切なことか身にしみる。平凡がいい。あたり前のことをあたり前のように繰り返す。偉大なる平凡だな。自然に笑みがこぼれた。
車椅子を自分で操作してひとりの患者がやって来た。少数派だが何人かは自力でやって来る患者がいる。
「先生、今日は何か楽しそうだね。良い事でもでも有ったのかい?」車椅子の主は六十代後半の男性肺癌患者だ。
「やぁ、花本さん。分かりますか?」
「目があまり良くないわしにでも分かるよ。顔中がほころんどる」
「そうですか。実は宝くじに当たりましてね。くじといっても当たったのはお金じゃなくて娘なんです。失望のどん底にあったのですが夕べ娘がとんでもない激励をしてくれましてね。いっぺんに元気がでたんですよ」
「へぇ、一緒に風呂へでも入ってくれたんかい?」
「それに近いですね。一緒に一杯やったりもしたんですが、涙が出るくらい嬉しいことを言ってくれましてね。宝くじにでも当たった気分なんですよ」バスタオル姿や、また自分の子供に生まれたいと言ったことなどを信二は教えた。退屈そうに見える平凡な生活が一番いいと、改めて知ったとも付け加えた。
「いいお嬢さんだね。その話し、もっと聞きたいな。先生、昼に一番やらんかね?」花本は将棋が好きだ。痴呆(ぼけ)ていない。信二よりはるかに強い。時々相手をするのだが、飛車角落ちくらいでやっと勝負になる。
「いいですよ。手が空(す)いたら行きますよ」と信二は約束した。
午後になり、一段落したところで信二は花本の部屋を訪ねた。娯楽室まで車椅子を押してやってきた。
「今朝の先生は本当に楽しそうだった。他人が喜んでいる姿を見て、自分も楽しくなるなんてここへ来て初めてそう思えるようになった」駒を並べながら花本が言った。
「あっ、花本さん飛車角は落としてくださいよ。そうでないとかなわないから」と信二が頼むと、全部の駒を並べ終わってから花本は二枚の駒を外した。
先手は信二で勝負が始まった。しかし今日は進行が遅い。将棋を指(さ)すより話しが多い。また手を止めて花本がしゃべりだした。
「わしの育った家は貧しくて近所からは蔑(さげす)まれておった。給食代も払えないときもあった。学校へ行っても馬鹿にされて相手にしてくれる友達も少なかったんじゃ。そんな中でひと一倍負けず嫌いのわしは、何でも一番になって見返してやろうと思った。成績も運動もじゃ。だから負けると悔しかった。いつの間にか、妬(ねた)みごころの多い子供になってしまった。それはおとなになっても治らなかったな」
花本には特技があった。そろばんだ。中学生のころは全国大会にも出たことがある。中学を出て町工場で働き定時制の高校に行ったが中退した。
「何をやってもおもしろくなかった。その理由は金が無いことだと勝手に思い込んで、少しでも給料の高い会社を捜した。仕事は転々とした。東京に出て行き、就いた仕事が学習教材を売って歩く営業じゃった」
東京近郊のマンモス団地を売り歩いたという。そこであることに花本は気付いた。どこの団地にも集会場がある。団地の自治会に頼めば使い道によって僅かな料金で貸してくれることも分かった。花本はそこで腕に自信のあるそろばん塾を始めたという。
「手作りのちらしを配って歩いた。初めは生徒は少なかったが、団地の奥様族はとなりの子が行くと自分の子供もやらなくてはと思う。ある種の見得(みえ)を張るんだ」くちコミで生徒が増えた。複数の団地で塾を開くまでになった。団地族の見得は次々に膨らみ、そろばんだけではなく英語や数学も教えてくれという希望が出てきた。
それを教えることは花本にはできない。そこで大学生のアルバイトを使った。そしてどこの塾よりも高い時給で雇った。それが当たりどこよりも優秀な学生が集まってきた。そして五年後には学習塾の社長に納まった。
「経営は順調じゃった。こんなに儲かっていいのかと思うくらい金が自然にたまっていった。会ったことの無いひとが突然訪ねてきて、親戚と名乗り金の無心をしたりで、わしの周りにはひとが寄ってくるようになった。そんなに豊かになっても今から思えば、心は貧しかった。
金が有るというのは優越感がある。他人の不幸には同情できた。しかし、他人が喜ぶ姿を見ると妬(ねた)ましく感じた。良いことは自分にだけあればいい。とても一緒に喜んであげることなどできなかったよ」
そのこころの狭さが失敗を招いたと花本は言った。おいしい話しを持ってくる者が後を絶たない。純金(きん)や穀物の先物取引などに代表される投機話しだ。花本は軽い気持で手を染めた。初めは儲けさせてくれた。もっと大きな金をつぎ込めばもっと儲かると誘われた。