夢と現(うつつ)
信二は考えた。自分の書く文字はだれにも負けないくらい下手(きたな)いといつも思っている。習字も小学生の時にそんな授業が有ったと思う程度だ。綺麗な字を書く人を見るといつもうらやましくなる。明美先生は上手な字を書くことも教えているのだろうが、その底辺には確固たる教育者としての信念を持っている。だからこそ“ダミー”になり得たのだろう。このひとがダミーで良かったと信二は思った。
「長時間、おじゃましました。そして貴重なお話しをありがとうございました。今日はこれで失礼します」信二は帰ろうと決めた。
「いつでも訪ねてください」と明美が見送った。
その頃、佳代子の病室には由美子と法子が来ていた。
「お父さんたらどこへ行ったんだろうね。もう暗くなっているのに連絡もしないで。携帯へ電話してみようか?」由美子がこぼした。
「そっとしておきなさい。おとうさんもひとりになりたいときもあるでしょうに」佳代子が制した。
「パチンコでもしてるのよ、きっと」法子が不満げに言った。
佳代子はふたりを帰した。
ずっと信二のことが気に掛っている。どこで何をしているのか、きっと悩んでいるんだろう。自然と表情は暗くなった。
地下鉄とJRを乗り継いで茨木駅に信二が降り立ったのはもう七時近かった。佳代子を見舞おうかどうしようかと道中ずっと考えていた。駅前のタクシーに乗り、昨日の居酒屋へ行くように命じた。まだ気持の整理ができていない。居酒屋は空いている。昨日と同じカウンターに座った。主人が覚えていてくれた。
「いらっしゃい。お疲れさん。今日はいい鯵が入ったよ、刺身でどうですか?」
「そいつを頼む。熱燗もな。それに頼みがあるんだが、今夜は考え事をしたいんだ。そっとしておいてくれないか」話し好きに見える主人に信二が頼んだ。
法子の遺伝子を調べることはできるだろう。DNA鑑定は、今はよく聞く言葉だ。犯罪捜査や中国残留孤児の身元確認に使われることなど新聞で読んだこともある。
宗教上の理由から我が子の血友病の遺伝子治療を拒んだ母親の話が思い出された。遺伝子とはひとを特定する情報の缶詰と言える。鑑定をして他人という結果がでたら、他人ではないという並びに遺伝子を組み替えることはできるのだろうか?そんなことをしても何にもならんわな。避妊の失敗の証明にはならない。
だけど佳代子はどうして俺と結婚したんだ。哲夫との結婚が流れてやけくそでしたんだろうか?その後も続いた不倫はなぜだ?哲夫はどうだ。ひとの女房を弄(もてあそ)んで許されるとでも思っているのか?この野郎め。酔いがまわるに連れて信二は混乱していった。
しかし、自分は明美の助言を受け入れようと考え始めている。仮にそうしたとしても佳代子や法子と今までと同じように暮らせるのだろうか?佳代子を許せるのだろうか?それで自分は後悔しないのだろうか?
大きすぎる、あまりにも大きなものを背負うことになる。最後まで背負いきれるのだろうか?『重たいな』と信二はつぶやいた。
決断
一時間ほどで居酒屋を出て、信二は家路に着いた。法子が待っているだろうなと思うと気が重い。いつも通り振舞おうと「ただいま」と言って中に入った。
「お帰りなさい。あっ、またお酒飲んでる。今夜はどなたに誘われたのですか?」皮肉たっぷりに法子が出迎えた。
「ひとりで飲みたくなる時もあるさ」と答えたものの、信二の視線は法子からは外れている。
「そう。お母さん元気だったよ。どうせ朝寄ったきりでしょう。お風呂沸いてるから入って。その後一緒に一杯やろう。お母さんは元気になったことだし、じきに退院してくるよ。前祝いなんてどう?」理由は分からないがいつもと違う信二を法子は励ましてやろうと思った。
湯船につかり、信二はぼやっと考えていた。こんなことにならなければ今夜の法子の気遣いは手放しで受け入れたことだろう。今はむしろ苦痛だった。かまわないでくれた方が気楽なのに。足を引きずるように風呂から出てきた。ビールと枝豆が準備されており、グラスも二個並んでいる。
「私もお風呂いただくね。先にやってて。すぐに出てくるから」
法子の声を背に信二は呑み始めた。気遣ってくれるのはいいが、大きなお世話だなと苦笑いをした。やがて法子が餃子を持ってやってきた。バスタオルを胸に巻いただけの姿を見て信二はびっくりした。
「なんだその格好は。嫁入り前の娘が」
「ふふっ。大丈夫よ、下着は着けているから。タオルが外れても見えないよ。それにお父さんなんか男と思っていないから。ちょっと元気が無さそうで落ち込んでいるみたいだからサービスよ。どう?ギャルと差し向かえなんて、ちょっとしたクラブで飲んでる気分でしょ。なにきょとんとしているの。注いでよ」おどけるような仕草で法子はグラスを信二の前へ突き出した。
信二はうろたえるようにビールを注いでやった。正に目のやり場に困った。
「お父さんどうしたの?元気無いわよ。どこか具合でも悪いの?」法子は枝豆をひとつ摘(つま)んで口に運び、信二にもひとつ差し出した。
「どこも悪くない。ちょっと考え事があってね。でももう大丈夫だ。今夜の法子を見ていると吹っ飛んだよ。ありがとう。飲もう。この前一緒に飲んだのはずいぶん前だったな。日本酒も出してこいよ。冷でいいよ」信二は前に立ちはだかる岩盤に僅かな亀裂が見えたような気がした。
「お父さんもお母さんも今まで大きな病気をしたことがないでしょ。今回の件はびっくりした。ふたりとももう若くないんだからお父さんも気を付けてよ。
今夜お父さんを待ってる間にアルバムを見ていたの。だれかが撮ってくれたんだと思うけれど左からお父さん、お姉ちゃん、私、右端にお母さんの四人が手をつないで歩いている写真が目に留(と)まったわ。みんな笑ってる。日付を見ると私は四歳。
じっと見ていたらいろんなことが想いだされて涙が出てきた。そして大切に育ててくれたんだって嬉しくなっちゃった。私って小さいときどんな子だった?」こう言いながら法子が信二に日本酒を注いだ。
「お前か?手の掛からない子供だったよ。由美子はお前が生まれるまではひとりっ子で甘やかした。そのせいか甘えん坊で我ままだった。小学校に上がってもおねしょが治らなかったな。お前なんか幼稚園の年中さんからおねしょはしなくなった。何でもひとりでできる子だったな。よく風邪は引いたけれどな。この餃子うまいよ、さぁお前も飲め」と法子を促した。それに応えるように法子も冷酒を始めた。
「私、お酒は強いって友達によく言われるの。きっとお父さんに似たのよね。だってお母さんはあまり飲まないし。お姉ちゃんだってぼちぼちだもんね」この法子の発言を聞いて信二は『知っているのか?』と思った。内容があまりにもタイミング良すぎる。
「アルバムを見て思い出したことがあるの。私がまだ小学校二年生くらいのころだったと思う。季節は寒い時期だった記憶がある。雨の日、帰ってくると家にはだれもいない。雨に濡れた服のまま、うとうとと寝てしまった。どれだけ寝たかは忘れたけれど寒気がして目が覚めた。体が震っていたのを覚えている。