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夢と現(うつつ)

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「まずはあなたの今のお気持ちをお尋ねします。あなたの憤りと落胆は計り知れないものがあることは充分に理解できます。それをどこへぶつけますか?
 その相手が佳代子さんならどうでしょう?後であなたが大きな禍根を残すことになりませんか?」やや考える間が有って、信二が答えた。
「悩んでいます。いや、苦しんでいます。この憤りを佳代子にぶちまけて、その裏切り行為を責め立てたい。頬のひとつもたたいてやりたい。そして今日までの俺の人生をどうしてくれるんだと詰め寄りたい。
 そうすれば私の鬱憤(うっぷん)は晴れるでしょうがそれは決して解決にはならない。佳代子は詫びて去って行くかも知れない。そうなれば娘たちはその理由を問い質(ただ)すでしょう。もう立派なおとなです。ふたりには真実を隠し通すことはできない。
 当の法子が一番苦しむことになるとは思うが、家族全員が同じ次元の苦悩を共有することになり、その結果空中分解してしまうでしょう。それを阻止する自信は私には無い。何の疑いもなく私を『お父さん』と呼んで良い時も悪いときも一緒に暮らしてきた。無条件で可愛い。その娘(こ)を苦しめてその挙句(あげく)に父娘(おやこ)が袂(たもと)を別(わか)つことは本意ではないし、それは最悪の結果でしょう。
 私ひとりが胸の中にしまい込めば平穏は護れる。しかしそうするには事象が大きすぎる。そうしたいと望みながらも自身を諌(いさ)める術が私には見つからないのです」
 これが本音だ。苦しんでいる。だからこそその真実を探りにやって来たんだと信二は訴えるように話した。涙をこらえながら聞いていた明美が信二の方にしっかりと向き直して口を開いた。
「やはり私が考えていたとおり、あなたは優しい心の持ち主でしたね。私は母としての原点で決断した佳代子さんの判断に希望を持っています。他の選択肢も有ったでしょうが一番辛い選択をしたのだと思います。それはあなたを裏切り続けなければならないということです。彼女には覚悟はできているでしょう。しかしそれはあなたが言うように良い結果は招かないでしょう。不倫相手を遠ざけてあなたの元であなたの加護に頼った、母としての彼女の決断は結果として肯定できるのではないでしょうか。
 よく裁判で死刑と無罪を争っています。検察と弁護側がいくらその正当性を述べてもそのどちらかは詭弁に過ぎません。真実は被告人のみが知っているはずです。これを裁く裁判官のような位置にあなたはいるような気がします。ただあなたは裁判官のように公正で中立な立場には立てません。そこには自身の利害が絡んでいるからです」
 灰皿はふたりの吸殻で山ができている。それを新しいものと取り替えて、そして信二のタバコが切れたのを知り「私ので良ければ吸ってください」と新しいタバコを信二に指し出しながら明美が続けた。
「あなたが裁かなければならない被告人は三人。佳代子さん、哲夫さん、そして私です。そして全く正反対の判決をあなたは左右の手に持っています。『極刑』と『執行猶予』です。
 裁くには確固たる根拠が必要でしょう。私にはひとつの大きな疑問があります。法子さんの父親は哲夫さんだと、あなたを含めてこの四人は疑ったことがありません。本当にそうでしょうか?
『実はあなたの子だったでは?』という素朴な疑問が今の私にはあります。男も女も『あの時』という確信が持てるとあなたも佳代子さんも言いました。しかしそれは『そう感じる』というだけで『そうだ』ということにはならないでしょう。私には経験が有りませんがそれは『思い込み』の領域に過ぎないと思うのです。
 あなたたち夫婦は本当は避妊に失敗したのではないですか?このことが実証されればあなたは迷うこと無く判決を下して、結審を迎えることができます」
「どうすればそれが実証できるのですか?」
「今の医学では遺伝子を調べればすぐに解るのではないですか?」あなたの方がご専門でしょうと言いたげな明美の表情だ。
「ただ、どちらの答えになるかはやってみないと解りません。あなたの望む反対の結果も予測されます。でも、やってみるまでも無く答えは導き出せるのではないでしょうか?怒らないで聞いてください。
 それは『自分は避妊に失敗したとあなたが結論付ける』ことです。抵抗は有るでしょうが、できないことではないと思われませんか?それが可能ならばあなたは不倫と言う浮気の事実だけを責めればいいでしょう。充分に執行猶予が付けられます。
 初めてお会いして僅かな時間の会話でしたが、あなたの優しさと懐の広さを私は感じ取りました。そこに縋(すが)りたいたいのです。それが『常識外れの良心』と表現した私の真意なのです」

 長い沈黙が続いた。
 信二は立て続けに二本のタバコを吸った。明らかに動揺している自分が判(わか)った。窓の外には夕闇が迫っている。信二は究極の質問を明美に投げた。初めて先生と呼んだ。
「先生が教える『書』の原点は何ですか?」この質問にびっくりしたような表情を見せた明美が答えた。
「書道の先生はたくさんおられます。それぞれに流派や流儀があっていろんな原点が有るはずです。私が教えたいのは『性(さが)』です。
 この地球(くに)に住む私たち人類はそれを構築する一部分に過ぎません。生命の歴史を遡(さかのぼ)れば私たちは新参者です。ずっと以前から進化を繰り返しながら絶滅(た)えていった種も数え切れません。今、人類は繁栄を極めて支配者として君臨しているかのように映ります。
 それは違うでしょう。植物や昆虫、その他の生命も繁栄しながら同居しているのです。人類は己の手でこの地球(ほし)を悲惨な状況に導いている部分が有ります。
 自然破壊や温暖化現象、核の脅威もそうでしょう。肌の色や宗教の違いなどがもたらす戦争は絶えません。話しが大きくなりました。もっと身近な問題を考えてみましょう。
 ひとの持つ感情は喜怒哀楽を瞬時に移動します。『字は体を著(あら)わす』と言われます。同じ字を書いても平静な時と怒っている時は明らかに違います。
『今年の漢字ひと文字』と言って表現したりもします。ひとの持つ習性や習慣、性格を含めた個性などはその人の『性(さが)』だと私は考えます。
そしてそれは必ず『書』に現れます。書いた文字を見て今の感情を知り、良い感情が表現できるような文字を書く。決して綺麗な字でなくてもいいのです。
 下手くそに見える字でも豊かな感情溢れるときに書いた『書』には、歓喜するそのひとの生命が躍動しています。『書』に向かい、『書』に教えられるのはそのひとの『境涯』です。これらのことを『性(さが)』だと私は考えています。芸術といった分野ではなく、いつも日常の中で自分のすぐ横にいる『書』であってほしいと願っています」
 確か中村医師も『悪い部分の女の性(さが)を見た』と言っていた。
作品名:夢と現(うつつ) 作家名:笠井雄二