夢と現(うつつ)
受けた恩の大きさと彼の律儀(りちぎ)さがそうさせたのでしょう。佳代子さんはかなり不満を訴えていました。結局、彼は京子さんと結婚して前田姓を名乗り婿養子として医院の跡取りとなったのです。その半年くらい後に佳代子さんはあなたと結婚したのです。その後もふたりの関係は続きました。ふたりの手紙は私を介してお互いの手に渡ったのです。」
チャイムが鳴った。出前が届いたのだ。
「ずいぶん早くお寿司が届きました。仕度をしてきますので少しお待ちになって下さい」明美が再度、席を外した。
信二は佳代子との出逢いを想いだしていた。
短大を卒業して信二の勤める病院に看護婦として入ってきた。直後の歓迎会で信二は佳代子を見染めた。誘うとためらいも無く着いて来た。それを信二は嬉しく思ったものだ。
看護婦の勤務は不規則だが毎週のようにデートをした。信二の持つ中古の車に乗って遠出もした。助手席の佳代子はいつも楽しそうで、ドライブ中など窓を開けて髪を風にそよがせてうっとりとした表情を見せる。佳代子が信二の前に全てを投げ出すのにそんなに時間はかからなかった。
あの時は哲夫との関係を続けながら信二にも身を任せていたのか。哲夫との結婚が破綻してその穴埋めが自分だったと考えると、当時の佳代子の態度はうなづけるものが有る。プロポーズするとふたつ返事で受け入れてくれた。そのとき信二は嬉しくて有頂天になったものだ。お互いの家族に逢い、反対も無く年末にはめでたくゴールインした。今から思うと、披露宴の招待客中に明美がいなかったことも納得できる。
大勢の仲間や親戚に祝福されて新婚生活がスタートしたがその後も哲夫との関係が続いていたことになる。毎夜、信二の前で見せたあの官能的な佳代子の仕草は何だったんだろうか?同時に、同じ姿を哲夫にも示していたんだと思うと信二は苦しくなった。
それにしても明美の存在は不可思議だ。正直に話すことを約束してくれたが、信二に対して詫びる姿勢が全く無い。ひと言くらい詫びてくれてもいいのに。
明美が食事の善を整えて戻ってきた。寿し桶には味噌汁とお茶の入った大きめの湯飲みが添えられている。
「味噌汁はインスタントですが、どうぞ召し上がってください。そして食べながら続けましょう」満面の笑みで明美は信二に勧めた。
「お手数をお掛けします。いただきます」そう言って信二は箸を進めた。
「手紙は結婚後一年くらいで一端途切れます。十九通あります。その中には哲夫さんとの関係が書かれています。しかしお互いが不倫でありながら、その内容にはうしろめたさが全く無いのです。最後の方で『私にはすまないと思う』とひと言あるだけです。その後約七年間の空白があるのです」
「その空白については後でお話しします。元々、京子さんには好きでもない男と結婚させられたという思いがありました。捨て子を育てた両親の精神は評価しながらも、その子が自分の夫になるなんて考えてみたこともなかったのです。彼女にとってそれは屈辱以外の何者でもなかったのです。自分の犯した過ちを棚に上げてその屈辱のはけ口は哲夫さんに向けられたのです。両親には逆らえないことを良いことにその仕打ちは増幅していきました。哲夫さんは当時の苦悩をこのように語ってくれました。
『見栄っ張りの京子は友人などが訪ねてくると仲の良い夫婦を装うように強要します。私に抱きついて甘えるような仕草をしたり、人前でキスをしたりする。そして知人が帰ると嘘のように態度が変わって私をなじるのです。もっと仲良く見せろとか服装が悪いとか、それに託(かこつ)けて氏(うじ)素性(すじょう)を貶(けな)します。そのくせ夜になると私に指一本触れさせません。そのことは別にかまわないが、寂しいものがあります』
そんなことが佳代子さんを忘れられなくしたのでしょう。麻薬のように吸い寄せられると言っていました。佳代子さんもその気持ちを理解したのでしょう。ふたりの関係は続きました」
「あなたはそのことをやめるように諭(さと)してはくれなかったのですか?」
「佳代子さんがあなたといっしょになる直前にお説教しました。これからはご主人を大切にすること、そして哲夫さんとはきっぱりと縁を切ることを約束させました。しかしそれは叶いませんでした。ふたりとも大人です。それが反社会的行為だということは解っていて続ける現実には、もう他人の話しなど聞かないという姿勢の現れだと思ったからです。それに私はふたりの『隠れファン』でもありました。適度な距離を置いて見守ってやろうと考えたのです」こう言いながら明美は握り寿しをほお張った。
『隠れファン』と言った明美の言葉に信二は抵抗を感じた。
話しによると京子の態度はひどいものがある。それ故、哲夫の行動を肯定することには同じ男として理解を示せるが、一方の佳代子の相方である自分にはどんな非があったと言うんだ。京子と同じレベルで思われたんじゃたまったものではない。このことを信二は明美に告げた。
「あなたのことは佳代子さんから聞いています。良くしてくれる夫だと感謝していましたよ。そして、申し訳ないことだが哲夫さんとの関係を絶つこともできないと漏らしていた。
彼女があなたへの不満を不倫の理由に上げたならば、むしろ私は一般的な常識論を駆使して諭したでしょう。そうではなく、心が大きく矛盾しているだけに彼女の苦悩を察しながら傍観するしかなかったのです」
「あなたには私への裏切り行為は妥当だとしか写らなかったのですか?とても人生の先輩だとは思えない。ましてひとに『書』の『道』を説く人でありながら」信二が食い下がった。
「あなたの憤りはよく解ります。空白の七年間についてお話しします。あなたと結婚して一年が経過したころにふたりを私の故郷である京都に呼び出しました。京都タワーのレストランで食事をしながらふたりを諭したのです。
こんな関係をいつまでも続けてはいけない、きっと破綻するときが来て自分達だけではなく周りのひとまでも傷つける。もっとしっかりと足元を見なさい。
私が見てきた多くの失敗を掲げて、それこそ人生の先輩として説教をしました。
ふたりは渋々承諾しましたが文通だけは続けたいと申し出たのです。
それは女々(めめ)しい考えだ。潔(いさぎよ)く別れなさい、とふたりを突き放しました。しかし、どうしても文通だけはと懇願するので条件付きで許可しました。その条件とは、今後の手紙は私が閲覧して差しさわりが無いと判断したものだけを届けるとしたのです。ふたりは抵抗しました。個人のプライバシーの侵害だと言うのです。
お黙りなさい。元々宛名は私になっている郵便物を私が開けて何が悪いのか。ピシャリと言ってやりました。ふたりは黙り込んでしまいました。少し待っていてください。あなたに見せたいものがあります」そう言って明美は奥へ入っていった。
しばらくして小さなダンボール箱を持って戻ってきた。中には宛名が明美になっている手紙が入っていた。