夢と現(うつつ)
起承転結、まだ人生は『承』から『転』に差し掛かったばかりのはずだ。このまま一機に『結』へ向かってしまうのだろうか。佳代子の実態が分からないだけに、信二には不安が増してきていた。病院に着くと病室には長女の由美子がふたりの孫と一緒に居た。
「遅かったわね」開口一番、由美子は責めた。
由美子によると、嘔吐物の中に鮮血が混じっていて応急処置をした内藤医師の判断でここへ送られた。緊急の検査が実施され十二指腸潰瘍との診断で今、手術中だという。
「まだ始まったばかりよ。四時間以上は掛るだろうって先生が言ってた。それにしても携帯はどうしたのよ。お父さんのは不携帯電話じゃないの?」ここでも同じ責めに遭った。
携帯電話は壱岐空港で搭乗前に電源を切った。その後電源を入れるのを忘れていた。信二は取り出した携帯電話を眺めながらふたりに詫びた。
ベットの横に佳代子の携帯電話が置かれている。信二はそっと手にした。電源を入れて発信履歴を見た。連続して四回、信二に発信している。発信時間は今日の十二時二十分から二十二分の間だ。そのころ信二は長崎空港で大阪行きの乗り継ぎで時間を潰しており、レストランで昼食を摂っていた。電源を入れる時間は充分に有ったのだ。倒れる直前、異変を伝えたかったのだろう。その相手がふたりの娘ではなく自分であったことに信二は涙した。
すまなかった。無事に手術が終って目覚めたら、このことを一番に詫びようと信二は思った。
由美子は「旦那の夕飯を作ってくる。すぐに戻ってくるから」と言って孫を連れて帰った。法子は手術室の前で待ってるようだ。
病室でひとりになった信二は考え始めていた。外はどっぷりと日が暮れて真っ暗だ。明日は今日と同じ日がやって来ると誰しもが考えるだろうがそれは大きな間違いだろう。ふたりとも大した怪我も病気も無くほぼ健康でやってきた。まさかどちらかが病に倒れるなどとは考えたことも無かった。知人や同僚の家庭で実際に起こっていてもだ。
信二はある政治家の発言を思い出した。
(人生には三つの坂がある。上り坂と下り坂、そしてもうひとつは『まさか』である)
まさかこのまま佳代子は死んでしまうのではないだろうか。そんな不安が信二を襲った。若くして逝った著名人もそうだが、死に至るまでの原因があったはずだ。癌にならなければ、佳代子も病に倒れなければ。
『死』は避けられないことだとは漠然と理解はできる。それはいつやって来るのか?ある宗教家の言葉を信二は思い浮かべた。
(交通事故で死んだひとがいる。事故にさえ遭(あ)わなければ死ななくても良かった。またあるひとは癌が手遅れで死んだ。癌が早期に発見されていたら死ななくて済んだ。事故や癌にならなければ死ななかった。その原因は事故や癌にあるかのように皆は考える。
それは大きな間違いです。真の原因は『生まれた』ということです。『生まれなければ』『死ぬ』ことも無い。生まれた瞬間から死へ向かっての行進が始まるのです。それが証拠に事故や病(やまい)に侵(おか)されなくてもひとは死ぬ。このことは全ての生命に云えることなのです。『生まれた』そして『生かされている』ことに感謝を忘れてはいけません)
難しい解釈は信二にはできないが何となく解るような気がする。ならば自分にも必ず『死』はやって来る。それは予知できないのだろうか?せめて元気なうちに。突然やってくるのは勘弁(かんべん)願いたい。
たまたま佳代子が先に倒れただけでこれが自分であっても何も不思議ではない。信二は生まれて初めて『確実に自分も死ぬ』という恐怖に襲われた。
正に『起承転結』だな。信二は時計を見た。午後八時を廻っている。手術が始まって既に四時間以上が経過している。病室を出て階下の手術室へ向かった。
まさか
手術室の前の長いすに由美子と法子が座っている。ふたりは信二の方を向いて首を横に振って「まだよ」と知らせた。
それから待つこと一時間、手術中のライトが消えた。中から佳代子がベットのまま車で運び出された。眠っている。表情はおだやかだ。三人は安堵した。佳代子はそのままどこかへ連れて行かれた。
「ご家族の方ですね。こちらへどうぞ」横にいた手術着のままの医師が促した。診察室のような部屋へ通された。
「手術の経過をご説明します。患者は看護婦、ご主人は放射線技師と伺っております。そういう意味では同じ医療の現場で働く者として説明はより早くご理解頂けると思っています。
胃に腫瘍が有りました。正確に申し上げるI胃から十二指腸に入った部分に複数の腫瘍があり、そのうちのひとつから出血していました。
あれほどまでになるにはよほどの自覚症状があったと思われますが我慢されていたんでしょうね。十二指腸入り口の一部と胃の下半分を切除しました。手術は成功です。輸血も不要でした。
問題は潰瘍です。悪性の可能性は低いと判断していますが、切除した病巣の検査を待たないと断言はできません。お若いので回復は早いでしょう。今夜は集中治療室でお預かりします」年恰好は信二と同じくらいと思われる執刀医は丁寧に説明をしてくれた。
一般のひとならここでかなりの質問を浴びせるところだが、これだけの説明で信二には全てが理解できた。礼を言ってふたりの娘を連れて辞した。病室へ戻るとすぐに法子が信二に尋ねた。
「もっと聞かなくてもいいの?癌とかの心配はないの?」
「そうよ、お父さんあれだけで本当にいいの?」由美子も食いついてきた。
「お母さんは大丈夫、心配ないよ。お父さんは医療の現場にいる。
執刀医が腫瘍について悪性では無いと思うと言っただろう。あれはかなりの自信があるから言えるんだよ。中村という友達の外科医がいる。腕の確かな真面目な先生だ。いつか彼が言っていたよ。『外科医はな、悪性か良性か、癌なのか転移があるのか、ほとんどの場合は患者の腹を開けた瞬間に分かる。またこれくらいの勘が利かないと生きた体にメスなどは入れられない』ってね。検査の結果を診ると言ったのは患者や家族への礼儀なんだよ。もうじき麻酔から醒めて苦しい思いもするだろうがそれも明日には峠を越える。心配ないよ」信二が胸を張るように語った。
娘たちは安堵したような表情になった。次女の法子を残して信二と由美子は帰ることにした。
「携帯の電源入れて枕元に置いといてよ」法子にしっかりと釘を刺された。
家に戻った信二は大きなため息をついたが内心は安堵した。ふと気が付くと今夜はひとりだ。いつも佳代子がいた。今まで前触れも無くいなくなるということは無かった。寂しいと思う気持ちと同時にお互いの不思議な夫婦の存在を感じられずにはいられなかった。『ちょっと旅行に』ではない。連れ合いは病と闘っている。こんな感情を抱(いだ)いたのは初めてだった。
小腹がへったので信二はインスタントラーメンを作って食べた。食べながら思ったのだが自分は何も知らないことに気付いた。預金通帳、銀行印、実印や家の登記簿などはどこにしまってあるのだろうか。そういえばふたりとも生命保険に加入している。こんな場合は一日いくらかの入院費を受け取る権利が有るはずだ。捜してみようと信二は佳代子の部屋に入った。