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つるさんのひとこえ 4月編 其の一

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4月6日




 4月6日(水) 晴時々曇



 朝食を半ば無理矢理胃に詰め込み家を出る。それにしても頭が重い。今日から授業が始まるというのに。わけが分からない。――。いや、本当は分かっている。自己紹介での失態。それもある。だが、それよりも昨日の去り際、マキのあの表情だ。幼稚園以来の付き合いだから、知り合ってから十年はゆうに越える。二人で帰ることだって、数え切れないほどあった。流石に、中学にあがり、マキが陸上部で活躍するようになると、一緒に帰ることは激減したが。
知り合ってから今までのことを思い出してみても、あのような顔をしたことがあっただろうか?
 いや、あるわけがない。僕の知っているマキはそれこそ元気が取り柄というのを絵に描いたような女の子だ。とうとう危険度レベル5のウイルスに感染してしまったとでもいうのだろうか。
 重たい頭の中ではどのようにマキと接するか、そればかりが駆け巡っていた。
全く、考え事をするということは素晴らしい。気がつくと、僕は既に学校へと続く坂道を上りきっていた。
 さてと、今日は目立たないようにしないとな。
 スニーカーから校内シューズに履き替えて――と、昨日は気付かなかったが、靴箱の奥に新聞紙がはさまっている。おそらく、去年までこの靴箱を使っていた生徒のものだろう。
 しょうがない。教室のゴミ箱にでも捨てておけばいいか。
埃と砂にまみれた新聞紙を取り出し、スニーカーをしまってスチールでできた靴箱の扉を閉めた。
 掃除くらいしといてくれよ、なんて思っていても口には出すまでもない小さな悪態をつきながら教室へと続く廊下を進んだ。
「おい!ちょっとそこの君!」
背後で誰かを呼ぶ声がした。
「君だよ!君!左手に新聞を持った君!」
 左右と前方を確認してみても、手に新聞を持っている人はいない。僕以外は。
「えっと、僕ですか?」
 おそるおそる振り返り、声の主を探した。が、探すまでもなかった。振り返った目と鼻の先に、両手を腰に当て、威圧感たっぷりに僕を見ている女子生徒が立っていたからだ。
「君以外に新聞を持っている生徒が他にいるか?それにしても、君は一年生だろう?素晴らしいな、君は!」
 言っていることが分からない。いきなり呼び止められたかと思うと、いきなり褒められた。褒められることは嫌いではないが、時と場合によるだろう。そして今は褒められる時でも場合でもない。が、
「ありがとうございます」
 とりあえず感謝の言葉を言っておこう。
「いやいや、私は本当に、心底感心しているのだ。君のような有望な人間が入学してくれたのは実に有り難い」
 ここまで言われると、逆に何かの悪戯かと勘ぐってしまう。まさか、昨日の自己紹介が既に学校中に知れ渡り、悪戯のターゲットとしてロックオンされているのではなかろうか。
「さて、君の名前を教えてくれるだろうか?」
 思った通りだ。ここで僕に自己紹介をさせて笑いものにしようとしているに違いない。
「そんなこと聞いてどうするんですか?」
 せめてもの意地だ。少しくらい抵抗する態度を見せてもいいだろう。
「そんなこととは何だ?君のような素晴らしい人間の名を知っておくことは、年間行事部部長として当然だろう」
 前言を完全に撤回。褒められるのに慣れてないこともあるが、この年間行事部部長とやらの言葉に有無をいわせない力を感じた。
「犬島夕貴、です」
 噛まないよう、細心の注意を払いながら、尚且つ簡潔に自己紹介をした。自分の名前を国会の答弁で発表するかのように。
「犬島君か。いや、素晴らしい名前だ。皆に紹介したいので、是非今日の放課後、四階の一番奥の教室まで来てくれたまえ。約束だぞ?それでは失礼する」
 颯爽とこの場を離れる部長を見つめる僕の顔は、はたから見れば狐につままれたようになっていたことだろう。『なにそんなに慎重になってんの?やっぱり噛まないように必死だったわけ?』なんて茶化した反応が返ってくるだろうと考えていたのだから。
 あそこまで言われると行かざるをえないよな。ただでさえマキのことが頭の中が沸騰しそうになっているというのに、放課後のことまで考えないといけないなんて。
 今の年間行事部部長さんやらとの約束を処理するために、単純な僕の頭の中から昨日の自己紹介のことが削除されつつあったが、授業をこなすだけのメモリはまだ残っているだろうか。

 残ってはいなかった。記念すべき高校生活初日の授業はほとんど上の空だった。何度か教師に指名されたが、自分でも何と答えたのか覚えていない。
 授業の合間や昼休みに、何度かマキと接触しようと試みたが、タイミングが合わなかったり邪魔が入ったりで会話すらまともにできなかったことへの焦りや苛立ちのようなものもあったからなのか。
 放課後は、思っていたよりも早くやってきた。
 マキは陸上部の部活見学のため、さっさとグラウンドに行ってしまったようだ。
 僕はわざわざ部活見学中にお邪魔するようなお節介で、空気を読めない奴はない。と思う。
「明日でいいか」
 気持ちを切り替える為の独り言。
 よし。それなら今朝、一方的に押しつけられた約束を律儀に守るため、四階の一番奥の教室まで行ってみようではないか。
 そういえば、どうして僕はいきなり会った人に、あんなに仰々しく褒められたのだろうか。階段を上りながら、今朝の自分を反芻してみる。
 まずは服装だ。校則通りの制服に校則通りの着こなし方。若干ネクタイが緩かった気もするが、これくらいは規則の範疇だし、呼び止められるファクターには含まれないだろう。つまり、服装に関することではない。
 次に行動。靴を履き替えて、教室に向かって歩いていた。ただそれだけだ。この他に何かあっただろうか?
 最後に、あの部長が言っていたことを思い出す。いきなり呼び止められて、僕はそれに気づかなかった。そこで、僕だと分からせるために左手に新聞を持った――新聞?
 あの時、僕だけが特別だったこと。それは新聞を持っていたこと。でもたったそれだけのことであんなに大絶賛されるのか?
 確かな解を得られないままに、僕の足は目的の階にたどり着いた。
 四階は特殊教室ばかり集まっているので、そこを活動拠点とした部活動もここで行われているようだ。例を挙げるとすれば、階段すぐそばにある音楽室では吹奏楽部が活動しているし、その隣の調理実習室では調理研究部が、なんて具合に。
 金管楽器独特の高低の混じった音に背中を押された僕の体は階段から一番遠い教室の前にたどり着いた。
 ここには『書道室』や『美術室』といったようなプレートは無い。
「ここ、か」
 深く空気を吸い込み、二酸化炭素を吐き出しきって、拳を強く握り、年間行事部と書かれた紙が貼られたドアを軽く叩く。
「どうぞ」
 ドアの向こうから、入室の許可が出た。
「失礼します」
 教室――もとい部室の中には、今朝僕を呼び止めた部長の他に男子生徒と女子生徒、しかもとびきりの美人さんの、計三人がそこにいた。
「遅かったじゃないか。とりあえず座りたまえ」
 朝のような調子でまず部長が口を開いた。
「はい」
 歓迎か命令なのか分からないが、言われたとおりに部室中央のソファーに腰掛けた。