あいねの日記1.5日目
やればできるのにやらないのはもったいないと思うのだが。やらせてみればそれなりどころか、私から見ても優秀な結果を出してしまうのだから余計にそう思う。
美弥子が付き添いをさせられた理由は、ピアノを習っているから。私が言うのもなんだが、田舎町での習い事としてピアノは希少な部類だ。だいたいが、習字、そろばんの二択でしかない。
例えば、合唱コンクールのピアノの伴奏を、生徒が弾く事が無いくらいだ。幼い頃から始めていれば弾けないはずが無いと言われると、その通りではあるのだが。そんな田舎ならではの常識もあり、授業で習う以上の習熟した楽器演奏の類は思った以上のステータスと言えた。
(美弥子といちゃいちゃする予定。
筆が進まないのです。)
こうやって文字を紡いでいながら、どうしても書くべき事を避けている。
私だけの問題ならば、いくらでも我慢できたのだ。それでも美弥子が関わる事を知った時には、黙って見過ごす事なんて出来なくなった。
それは夏の足音が間近に聞こえるような、気だるい熱気が包むある日の事だった。この頃には、わざわざ待ち合わせるでもなく、お互い音楽室で過ごす事が日課となっていた。
だが、その日は珍しく美弥子が来ない。他のいつもの顔ぶれが並んでいるのにも関わらず。確か習い事に通う日でもなかったはずだ。昼休みに会った時も、とくに変わった様子はなかった。
なにか、用事でもあるのだろうと思いもした。だが、そう割り切るにはなにかが違うと、虫の知らせのような感覚が告げるのだ。
気になった私は、美弥子の教室に向かってみる事にした。普段の私は移動教室がなければ、教室と音楽室の行き来、それと昇降口ぐらいしか行動範囲はない。誰もいない廊下をひたひたと歩いていく。夕日が照らし出す学校の風景とは、とても不思議なものだ。日常から隔離された空間のように思えてならない。
美弥子の教室は確かこの辺りだったはず。ためらいがちに廊下から教室内を覗きこむ。誰もいないのだから気にする事ではないはずだが、それでも知らない教室に足を踏み入れるのは躊躇われるものだ。
ざっと見回してみるが誰一人残っていないようだった。見つからないならそれでかまわない。悪い予感など当たらないに越した事はないのだから。
その時扉の死角であった場所から、がたっと椅子をずれる音がする。思いも寄らぬ場所からの音というものは、知らぬ者の神経を逆撫でするものだ。
「だれっ?」
私らしくもなく、取り乱しつつ音のした方向へと目を向ける。視線の先には、捜していた美弥子の姿があった。だが私の求めていた美弥子の姿ではなかった……。
お互いに立ち尽くす二人。いったいなにがあったの?と思う私。そして見られた事を、しまったと思っている表情を浮かべる美弥子。
こう言った事は先に書いておくべきだろう。語り部として落第点となってしまうとしても。少なくとも書いてしまった方が私にとっては気が楽だ。
美弥子がいつもとは明らかに違うとは言っても、美弥子の身体に傷があるわけではない。物品などを壊されたわけでもないようだ。
ただ、いつもなら見る事など無い表情を浮かべているだけだ。はっとした表情を浮かべ、身じろぎもせず涙のあとをはっきりと残したまま立ち尽くしている。ただそれだけ。
「ごめんなさい……」
呆然と見つめる私に、美弥子がそう一言ぽつりと溢す。意図が掴めない。
「高田さん、誰かになにかされたの? どう見てもなんでもないって感じに見えないよ」
「なにもされてない。なにかしたのなら、それは私の方」
「だったら、そんなに泣きはらした顔でいるなんておかしいよ。なにもされてないなら、泣いたりしないでしょ。よかったら私に話してみて? 私じゃどうにもできないかもしれないけど」
「うん、できないし言っても無駄だから……」
あきらかに拒絶の意思を浮かべる。
「そしてごめんなさい……」
再び謝る美弥子。
「それじゃあ、なんだかわからないよ。謝るなら、せめて理由くらいは説明してほしいよ」
「ごめん……なさい……。藤倉さんの楽譜刻みました」
「楽譜?」
脈絡がなく唐突である。楽譜と言われて真っ先に思い浮かぶのは、私がここ最近練習していたものだろうか。だがそれはもともと美弥子から譲ってもらったものだ。
「ごめんなさい……」
そう言って泣き崩れ、床に蹲る美弥子。この場を見た者なら、あきらかに私に非があると思うだろう。その様子には冗談と思わせる要素は微塵も無い。
本人がそう言うのなら本当の事なのだろう。だとしたらなぜそんな事を?と言う疑問が出てくる。
「いったい、どこの誰とのやり取りでそんな事をする羽目になったの? 高田さん一人の意思ではないでしょ? それに謝られるにしても共犯者の中の一人に謝ってもらっても、私の気は済まないよ」
一向に要領を得ない状況に苛立ち、強気に出る事にする。
「いいの、許してもらえるなんて思ってないから。それでもごめんなさい……」
なんらかの反応があると思ったのだが、思ったよりも手強い。
「あーもうっ、そのままにしておくなんて出来ないでしょ? とりあえずそんなところに座り込むような真似は辞めてよ。ほら、掴まって」
そう言って手を差し出すが。
「放っておいて……」
その言葉と同時に、手も振り払われる。
「そう言う訳にも行かないよ、私たち友達でしょ?」
「友達なんかじゃないっ!」
日頃の美弥子からは想像もできない荒れた態度に驚きを隠せない。それでもどうにか宥めなければいけない。
「友達でなくたって、そんな姿を見たら放って置けるわけないの。私がそんな性格じゃない事くらい、近くにいたなら知ってるでしょ? とりあえずしゃんとしてよ」
今度は抵抗されなかった。その行動は言葉とは裏腹に素直なものだったから。
「言いたくなければ言わなくてもかまわないから。私の気が済むか済まないかの問題だし、高田さんが気にする必要も一切ないよ。でも、私の独断で落ち着くまで放っておくわけにはいかないって思っただけ。それだけだから。」
美弥子を抱きしめる。少なくとも落ち着くまでは見守るべきだろう。
私はなんとも気まずいこの状況の間を埋めるためにも、想像を巡らせる事にする。
現状での憶測だけで判断するなら、美弥子になんらかの取引を持ちかけて実行させたの者が居ると仮定するのが妥当だろう。仮定した人物が、私が関わっている人物で美弥子にペナルティーを科せたまでは確定だろうか? しかしまた、ずいぶんと手緩い事をしてくれる。美弥子が関わっていなければスルーして終わりなのだが。
陸上部との怨恨の線を思い浮かべるが、その線は薄いかもしれない。あの人たちであれば、もっと私が堪えるであろう行動を取るはずだろう。それを分かっていて、美弥子を仲間に引き込んだと言う線も否定できない。これからエスカレートすると考えればだが。今回は手始めにわざわざハードルを低くしているのかもしれない。
しかし、こう言う状況でも女の子に抱きつかれる状況は、時と場合に関わらず遠慮したいものである。この場合、正確には私が抱きついた事になるのだが。そうなるとますます立場がない。
作品名:あいねの日記1.5日目 作家名:Azurite