あいねの日記1.5日目
「すっごい上手でした。先生みたいな綺麗な音色を出す人に会ったのは初めてです」
先ほどまでのやり込めようとしていた事が、嘘のように手のひらを返した懐きよう。我が事ながら半ば呆れてしまう、本当に現金な性格だと。
「そこまで褒められると逆に照れちゃうかなぁ。最近じゃピアノは日本の古典くらいしか弾かなくなっちゃったから、だいぶ腕も落ちちゃってるんだけどねぇ。授業で弾く曲なんて代わり映えしないからなぁ」
「この曲っていまみたいな室内を暖かく包む光みたい」
「んー、時代が違うからなんとも言えないけど、どっちかって言うと肌寒いかもね」
「そうなの?でもいまみたいな季節じゃないの?」
「季節的にはその可能性もあるけど、日本とオーストリーでは緯度も気候も違うでしょ? 同じ時期だとしても、冬はとっても寒いし春も短いよ。それに、先生の記憶が確かなら、この曲って冬時期に作り始めた曲じゃなかったかな? 付け加えるとね、空気も日本と比べて光りに包まれるってほどじゃないと思うよ。ほこりっぽいしね……。でも夏は涼しくて快適なのがいいよね」
「先生、まるで見てきたみたいに話すんだね」
知ったかぶりの態度に皮肉を言いたくなる。
「あれ、言ってなかった? ここに来るまでウィーンに留学してたのよ」
「ウィーンって事はドイツ語っ!?」
『当たり、よくそんな事知ってるね。』
しれっと、ドイツ語で話して見せる。とは言っても、わかりやすいように丁寧なゆっくりとした発音。
『テレビの言葉と一緒!』
それにつたないながらも精一杯返そうとする私。
『あれ?あなたドイツ語がわかるの?』
なんて言われても、所詮独学の付け焼刃。仕方ないのでちょっとはましな英語で返す事にする。
『ごめんなさい、実はまだちょっとしかまだ話せなくて。でも、先生の話す言葉はとってもきれい。』
『そうなんだ、じゃあ英語は得意なの?』
私に合わせるように英語で返してくれる。
『うん、英語なら自信あるよ。先生の話す英語もきれいだね。山口先生みたいな偽者じゃないよ』
『褒められて悪い気はしないけど、山口先生を悪く言うのは感心しないかな。気持ちはわからなくもないんだけどね』
『口を滑らせないように心がけます、すみません』
『とげがある言葉ぶりだけど、聞かなかった事にしておくね』
『先生、質問してもいいですか?』
『先生でわかる事ならね』
『日本以外の国ってほんとにあるんですか?』
『英語で話しているのに、不思議な事を聞くのね。一応、たくさんの国を見て回ってきたからあるのは本当よ。その程度で、この言葉を信じるかは別問題だけど』
『先生、ありがとうございます』
「さってと久しぶりにピアノも弾いたし、最近じゃドイツ語も英語も使わないからちょっと疲れちゃったよ。しっかし、なんでまたそんなへんてこな発想になるのかなぁ」
「いままでちゃんとした外国語なんて話せる人に会った事なくて。外国語全部って、大人が作ったサンタクロースのような、都合のいい絵空事なんだって思えてて……」
「んー、まあわからなくもないわね」
「私がこうやって一生懸命覚えた英語も、暗号解読の一つなんだって思ってたから」
「それもそうね、原爆が落ちて戦争が終わったって言われても、ほんとに落ちたとは思えないものね。あなたには英語やドイツ語どころか、外国そのものが作り物って思えたのね。でもまあ、いくら先生が言い募っても、こればっかりは君が実際に見て聞いて歩いて確かめるしかないもんなぁ」
「うんん、先生の言葉は信じる」
「君は将来、先生みたいに留学する事が夢なのかな?」
「そうじゃないけど、異国の人たちと話す事が夢です」
「じゃあ、ぜんぜん叶ってないねぇ。先生、普通の日本人だもん」
これだけすごい経験をしているのに、普通と言い切ってしまう事自体が普通から外れている証拠ではないだろうか。少なくとも私は、こんな田舎で同じ経験を持つ人と会った事すらないと言うのに。
「どうして先生は、授業で英語を教えないんですか?」
質問を変える事にする。きちんとした英語が話せるのにもったいないと思ったからだ。
「あー、先生は英語の教員免許なんて持ってないもん。できるから教えれるってものでもないんだよ。音楽の教員免許だけはあったから、こうやって音楽の先生してるけど、英語の先生って言うのは無茶な注文よ」
「そうですか……」
見なくても分かるほど落胆の表情を浮かべてしまう。
「そうやって落ち込まれると先生も困るんだけど。君の英語の受け持ちって誰なのかな?」
私は天敵の名前を告げる。
「山口隆士……先生」
一応、先生を付けておく。
「それでさっき、偽者って言ったのね。山口先生の事嫌いなの?」
「嫌い」
「ありゃりゃ……。先生は山口先生、嫌いじゃないけどなぁ。こうやって赴任してきた新米だから、分からない事も多くてね。そんな中で歳も近いし、いろいろ良くしてくれるもの。でもまあ、君の言う事もわからなくはないよ。山口先生の授業を受けていても、英語は話せないと思うし。とは言っても、あなた英語話せるじゃない? ちゃんと私には伝わったよ。一応フォローしておくとね、山口先生の授業でも英語は上達するよ。英語の仕組みとか覚えられるんだから」
「それくらいならもう分かる」
「そうなんだ……」
先生も二の句が告げなかったのだろう。
「山口先生の授業なんかに出なくても、こうやって先生と過ごせばもっともっと上達するもん」
「それはそうだろうけど、サボってたら卒業も出来ないよ? それにそんな事されちゃったら先生もクビになっちゃうから。先生のせいで授業をボイコットする生徒がいるんですよ? なんて言われちゃうとね。お互いに困っちゃうでしょ?」
「ごめんなさい……」
「それにね、君は褒めてくれたけど、先生はダメな子なんだよ? 私なんかじゃダメだって言われて逃げてきちゃったの。留学はしてたけど、それでも先生の力は及ばなかったんだよね。本場はやっぱり違うんだぁって、諦めてこうやって先生をする事にしたんだよ。みっともない話で申し訳ないんだけどね」
「それでも先生がいいよ。私がいままで出会った中で、誰よりも先生がすごいもん」
「んー、じゃあ先生の手が空いている時は、教えられる事なら協力するから。その代わり君も、やらなきゃいけない事はしっかりやるんだよ? 約束できないなら、こうやって来られても相手にしないからね」
「約束します」
「じゃあ、昼休みも終わるからそろそろ戻ってね。私も戸締りしないといけないから」
「わかりましたっ」
これが恩師との初めての出会い。あの時会っていなければ、いまの私はいないだろう。
それから、私は先生の約束を守るために、いままで以上に勉強に力を入れるようにした。それでも部活動には復帰もせず、相変わらずではあった。部活に充てる時間が、当時の私には惜しくて仕方なかったからだ。幸いにも先生は部活顧問もなく、クラス担任などの肩書きもなかったため、他の先生たちに比べれば自由になる時間も多かった。
私は音楽室に通いつめる事になった。大好きな先生と過ごすために……。
作品名:あいねの日記1.5日目 作家名:Azurite