あいねの日記1.5日目
夏の日は長いが、ほとんどの生徒が下校してしまっているのだろう。静かな廊下に、私の足音とグラウンドから響く微かな喧噪、そして夕暮れを告げるひぐらしの音だけが響いている。
美弥子の教室を訪れても、意味は無いと思いつつ足を向ける。当然のごとく誰もいない……。
気ばかり焦る。どうしても最悪の想像が頭から離れない。美弥子が転校して、もうこの街にはいないと耳にする事を……。
ふと思い立って美弥子の机に目を向ける。なにか手がかりになるような物はないだろうか? あの几帳面な美弥子の事だ大概の物は持ち帰っているだろう。
私の予想通りにこれと言ったものも見つからない。だいたいそう言った身分を証明するものなど、中学生が持つ事などないのだ。せいぜい生徒手帳くらいだろう。
やはり、ここは根気よく聞き込みするしかないのか。私を基準にしても仕方ないから、常識と照らし合わせるとして。住所、もしくは電話番号を知っている人物を想像する。
家族、親しい友人、クラスメイト、教師、近隣の住居者、病院、塾。どうにも接点がないものばかりだ。やはり先生に頼むしかないのだろうか。
美弥子の席に座り、いろいろと考えを巡らせようとはするが、集中力が持続しない。堂々巡りでしかない。
なくなるとその大きさを実感すると言うが、まさにそのとおりだ。私はいつか美弥子と仲直りする日が、当然のごとく来ると思いこんでいた。
しかしいまその機会は永遠に失われようとしている。美弥子はどんな気持ちで楽譜を刻んだのだろう? ……楽譜?
そう言えば、あの楽譜は市販の書店で売られているものではなかった。
手作りのような簡素な物だった。ピアノ教室…? そうだ、背表紙に小さく教室名が書かれていた記憶がある。
私は急いで自分の教室に向かう。確かあのまま机の中に紙封筒ごと閉まったままのはずだ。
切り刻んだと言っても、シュレッダーにかけたわけではない。さすがにそこまでされていれば、文字などは読み取る事も出来ないだろうが。単にはさみを数回通しただけだ。確認すると、やはり教室名と連絡先が書かれている事が読み取れた。
教室名は、私の知る名前ではなかった。電話番号から察すると隣町のものだろう。怪しまれないように美弥子に関する事を引き出せるだろうか? 無闇に聞いて回るよりも確かだとは思うのだが。とにかく電話するしかないだろう、事務室の前に電話があったはずだ。急いで向かう事にする。
ここで定休日だったりしたら笑うしかない。しばらくの呼び出し音の後に繋がる。
受付の人であろうか、それとも先生なのだろうか。私は落し物として楽譜を拾った事にする。
「高田美弥子さんと言う方の楽譜を拾ったのですが、そちらの教室に通っているようなのですけど」
「そうですか、それはわざわざありがとうございます。
ただ、高田さんは先日こちらの教室を辞めてしまっていて、こちらに届けても無駄になってしまうかもしれませんね」
「できればですが、住所か電話番号を教えていただければ、私の方で届けて差し上げようと思うのですが? 丁寧に直筆での書き込みなどもあるものですから、美弥子さんも困っているのではないかと思いまして」
「なんだか申し訳ないのですが、そうしていただければ幸いです。お調べしますので、少々お待ちいただいてもかまいませんか?」
うまくいった。調べ終わるまでもそれほどかからなかった。教えてもらった住所と電話番号をきちんと間違いがないようにメモし、お礼を言い電話を切った。
住所によれば、隣町に近い場所らしい。私の家からだと逆方向になる。そうは言っても、自転車でなら学校から15分足らずで着く距離だろう。
電話をするよりも、直接会いにいく事にする。切られてしまっては意味がないのだから。直接であれば、無碍に面会を断る事もないだろう。少なくとも同じ学校に通う生徒なのだ。家族が出たとしても怪しまれる事はないはず。
これほど会いたいと思わせられた人物は、私の人生でも貴重だろう。なんて言ってやろうか考えながら、ペダルを強く踏み込む。
着いてみて思った素直な感想と言えば、大きく立派な門である。門がある事自体、私には信じられない。私の家にも庭先に申し訳程度の門らしきものはあるが、同じ括りにしてしまうのはあまりにも申し訳ない。我が家の場合は、門と言うよりも柵が開閉すると言った程度の簡素なものだ。
ここから見る限り分からないが、家も庭もそうとう広く大きいのだろう。
家を囲む塀も高く長いものだ。インターフォンらしきものが見当たらないが、入ってしまってもかまわないのだろうか? 家の作りは和風のようだ、私の家のような半端な西洋まがいではない。
恐る恐る門をくぐる。自転車を、くぐってすぐの辺りに置き玄関に向かう。
思っていたとおり庭も広い。玄関に向かうであろう石畳の上を歩いていく。人は見かけによらない、見た目で値踏みする事がひどく難しいものだ。私の知識や経験が乏しいだけかもしれないが。
玄関に着いたがどうにも気後れしてしまう。
「ごめんくださ〜い」
結果として、ピンポンダッシュする人の気持ちが少し分かった。私も逃げてしまいたい気分になったのだから。この状況で、犬にでも吠えられれば間違いなく逃げだすだろう。情けないものである。落ち着かない気分のまま、我慢して待つ。
私の中でこのまま帰ってしまいたい思いの天秤が、だいぶ傾いてき始めた。そうこうするうちに戸が開き、落ち着いた雰囲気を持つ女性が顔を見せる。美弥子の母親にしては思っていたよりも妙齢だと感じた。私の母と比べても一回りは違うのではないだろうか? 気持ちに余裕がなくなるとどうしても意識があらぬ方向に向いてしまう。
「こんばんは、美弥子さんはいらっしゃいますか?」
「こんばんは。その制服は美弥子さんのお友達かしら?」
ぎりぎりまで名前を伏せる事にする。
「美弥子さんとは、学校でも仲良くさせていただいています。美弥子さんに用があり立ち寄らせていただいたのですが、取り次いでいただけますか?」
なるべく丁寧を装ったつもりだが、怪しまれてしまったろうか? 制服の効果に期待しよう。
「少し待っていてね、呼んできますから」
そう言って奥に戻っていく。この様子なら美弥子は家にいる事は確定だ。こう言う時、私の家では母が大きな声で呼びつけるのだが、美弥子の家では勝手がだいぶ違う。
しばらく待っていると美弥子が姿を見せた。そして私の姿を認めた途端に表情が一変する。とても嫌そうな物を見たように……。やっとここまで来たのだ、素直に逃がすつもりなど毛頭ない。
「こんばんは、高田さんにはいろいろ話したい事があったものだから。
迷惑だと承知していましたけど直接来ちゃいました」
ひぐらしの奏でる音色がやけに耳に障る。それだけ時間が長く感じると言う事なのだろう。
「こんばんは、その…話したい事ってなにかな?」
「せっかくだし散歩でもしながら話さない?」
外に連れ出すのは、私なりの策である。居間などに連れて行かれては話せるもの話せなくなる。多少なら他人の目に付いてもかまわないが、両親の前となるとそれはできない。美弥子もそれが分かっているのだろう、反応がとても鈍い。
作品名:あいねの日記1.5日目 作家名:Azurite