レジで前に並んでる奴のTシャツの背中のロゴでした
「たしかに仕事はキツイわよ。油まみれになるし、お昼休みも実質一時間摂れないことだってあるかもしれない。納期間際は徹夜で作業することだって珍しくない。でもその代り、お給料は悪くないと思うわよ。そこらの大卒の新人と比べたら、鼻で笑えるレベルでね」
おばちゃんはここでひと呼吸置いて、麦茶のグラスに口をつけた。
「あと、ここからだと通勤するのは無理だから、とりあえずは、おばちゃんの家に住み込みで働いてもらうことになるわね。でも安心して。ウチの庭に、離れの小部屋があることは憶えてるでしょ? オミトくんも小さいとき、何度か遊びに来たことがあるし。あそこを使ってもらうことになるから」
たしかに、おばちゃんの家のその広い庭の隅のほうに、小さなプレハブ小屋があったことは憶えている。秘密基地などと言って、兄とよく遊んでいた。
「あそこに電気も上下水道も通してあるから。ちゃんとトイレまで付いてるのよ。完全なプライベート空間。カノジョだって呼べるわよ。電話線は繋いでないけど、ケータイ持ってるんだから問題ないわよね」
━━ということは
「パソコンのネットもできないけど、すぐ近所にネットカフェ? そういうのが最近できたみたいだから、それも問題ないわね。食事はもちろんウチのほうで食べてもらうから。食費はお給料から天引きさせてもらうけどね。……どうかしら? 自分で言うのもナンだけど、悪くない話だと思うけど。ウチで働いてみない?」
おばちゃんに先回りしてそう言われたオレは、口を開くタイミングを逸してそのまま黙りこんだ。
そこから十秒ほど、三者間に嵐の後の静けさのような沈黙が流れた。
「どうかしら? 悪い話ではないと思うけれど……」
沈黙を破ったのは母親だった。自信の無さそうな小声だった。そして、オレとおばちゃんの機嫌を窺うような視線。
いつからこうなってしまったのだろう。まだオレが働いていた頃や、父親がまだ家にいた頃はこういう人ではなかった筈だ。もっと快活で、意志の強そうな眼を持っていた。その眼に射抜かれると、いつも黙ってしまうのはオレのほうだった筈だ。
「黙ってないで返事したらどうなの?」
うつむいたまま考える振りをしていたオレに、おばちゃんがやや語気を荒げる。
「オミトくんさ、ひきこもりになってからもう何年になる? ……もう三年だよ。このままずっとそんな悠々自適な生活が続けられると思ってるの?」
おばちゃんはオレにどうしてほしいのだろう、と思った。背筋をぴんと伸ばして“は、はい! よろしくお願いします!”とでも答えていれば、満足していたのだろうか。黙りこむオレに説教するところまで、最初から予定されていたことなのではないのだろうか。
「こんなこと言うつもりじゃなかったけど、……お母さんはね、お父さんと正式に離婚することになったの。……分かる? もう今年二十八になるあなたを養育する義務なんてお父さんには無いの。だから、今まではナアナアで払われ続けてきたお父さんからの毎月の養育費も━━」
「姉さん、そんな話を臣人の前でしないで!」
「桃子が今までちゃんと注意してこなかったからでしょ! 今まで母親として何をやってきたの!」
前触れもなく怒鳴った母親。それに即応戦するおばちゃん。
二人を置いて、オレは無責任な傍観者のように足早に和室を出た。“まだ話は終わってないでしょ”というおばちゃんの声を背中で聞いた。そのまま二階に戻りかけたが、またおばちゃんにドアノックの応酬でもされたら堪らないので、踵を返して玄関に向かった。
━━そういえば母親の名前は“桃子”だったな
そんなことを考えていた。
昼下がりの近所の街並みを、とりあえず駅前に向かって歩いていく。
こんな日の明るい時間帯に外出するのは本当に久しぶりだ。
いつもコンビニへ向かうときの深夜には歩行者天国のように感じる広い道路には、車がひっきりなしに通り過ぎていく。歩道ですれ違う人たちの三人に一人がオレを見ていた。三人目がオレを見ていたとき、オレはスウェットの上下のまま外へ飛び出してきてしまったことにやっと気付いた。とりあえず電車に乗るのはやめようと思った。
最近オープンしたという大型電気店の前まで来た。店の出入り口付近に、おそらく喫煙所であろう灰皿とベンチが固まった一角を見つけて、そこに腰を下ろした。
すぐ近くで、太った黒ずくめの男が最新型の液晶テレビに映るテレビアニメを観ながら踊り狂っていた。黒いベースボールキャップに、黒ぶちメガネ、黒いTシャツ、ブラックジーンズ。画面に映っているのは、やたらスカートの短い四人の女の子たちが異形の者と戦う、といったような幼児向けのアニメだった。ちょうどエンディング曲の最中で、その軽快な音楽に合わせて踊る画面の中の女の子たちと全く同じ振付で、黒ずくめの男は汗を飛ばしながら踊っていた。
それを脇で見守る痩せた男が大笑いしながら言った。
“グッさん 四人組なら誰でもいいんスか?”
無精ひげの目立つ色白の男だった。何日も洗濯していないような湿り気を感じさせるダンガリーシャツ。黒ずくめの男を見ながら大笑いしつつ、周りにも目配せしていた。
“どうです? ぼくの友だち 面白いでしょう”とでも言いたげな表情だ。
やや遠巻きに、四人の女の子がそれを見守っていた。全員中学生ぐらいか。もちろん黒ずくめの男が目当てではなく、画面に映るアニメのほうだ。
彼女らの会話から“新ED”という言葉をキャッチした。そのくらい、もちろんオレでも意味は分かる。
黒ずくめの男が踊りながら飛ばした汗が女子中学生たちの近くまで飛んできて、そのうちの一番体格のいい女の子が“きったねえな!”と怒鳴ってから舌打ちをした。
そうやってオレは小一時間ほど、その場で人間観察をしていた。
昼間に外出するのも悪くないな、と思った。日光を浴びて道行く人を観察することと、蛍光灯の光を浴びながらタイムラインやジャノミチをチェックすることは、似ているようでまったく違う。月九ドラマと橋田壽賀子ドラマほど違う。どちらのほうが良いか悪いかという話ではないが、少なくとも昼間に外出するということは、オレの中の罪悪感を薄れさせてくれる気がした。
……罪悪感? 違うな。では、何だろう。
人間観察にも飽きた頃、オレはおばちゃんにドアノックの応酬を食らっていたときに念のためポケットに入れておいた携帯電話を取り出した。馴染みの操作でTwissterへアクセスする。気晴らしに一四〇字小説を書くことにした。
『電気屋の前でオタクがテレビアニメを観ながら踊り狂っていた。今日から新エンディング曲になったらしく、オタクは汗を飛ばして踊る。その汗が、近くにいた女子高生の顔に跳ねて「汚ねえな!」と怒鳴られた。医者が言った。「大丈夫。ちゃんと治療すれば治る病気です」「EDじゃねーよ!」(#twnovel)』
作品名:レジで前に並んでる奴のTシャツの背中のロゴでした 作家名:しもん