第九回東山文学賞最終選考会(4)
それから、俺はなんとなく気まずさを感じながら特に話も無く夜まで過ごした。途中、共同生活に必要な質問を咲が何度かしてきた。それは普段と変わらない聞き方で、俺も普段と同じように答えた。その咲の気の使いようが俺にはありがたかった。
夜になって、ベッドに入った時に咲がもう一度、今日、どうだった?と聞いてきた。
「うん、大丈夫だったよ。」
何が?と、自分で思ってしまう。でも、咲はそう、と小さく呟いて、それから俺たちは眠りについた。
途中、一度目が覚めた。
別に何か夢を見ていたわけでは無かったけれども、急にぱっちりと目が覚めたのだ。少し首を動かして時計をみると、二時半だった。寝てから一時間半程しかたっていない。俺は寝返りをうった。すると隣に寝ている咲に体が触れて温もりが伝わってきた。正直、夏の夜にはむさくるしい感触だった。少し体をずらす。
それからあれこれ考えて、寝ようか、それともいっそのこと起きてしまおうか悩んだりして、いつのまにか咲の事を考えていた。
咲との出会いは去年の春辺りだった。咲の方から貴博が編集している冊子を持って、あの、と帰り間際に話しかけてきたのだ。最初、よくあるファンの一人かな、と思ったけれども、少し話をしていて、俺の作品をきちんと文学的に読んでくれる数少ない読者の一人だと知る事が出来た。
告白は俺からした。言葉を選ばずに会話を出来る咲に惚れずにはいられなかった。夏、貴博に手伝ってもらって、何人かで花火をした後、二人きりで線香花火をする場面を作ってもらい、そこで同じようなシチュエーションで告白し、オーケーする物語りを書いた原稿を手渡して、読んでもらった。途中から笑顔を見せながら読んでいた咲は、読み終わった後、まったく原稿通りに顔を上げて、ちょっと線香花火がまぶしいみたい、と呟いて目を閉じた。俺も、原稿通りにだいじょうぶ?と呟きながら、咲に近寄って行った。 、、、、
ふと、目の前に咲の首筋が見えた。それと同時にあの当時の胸のときめきを思い出して、ゆっくりと咲の太股とその内側とをタオルケットの下で擦ったりした。それから気がついたら俺はまた眠りに付いていた。
朝起きて、いつものように咲と挨拶を交わし、いつものように支度をし、大学へ行くと貴博が俺の小説を絶賛してくれた。
「いやぁ、いいよ、これ。思わず親父んトコ電話しちゃったよ、俺。」
講義の合間に連れられて大学のすぐ側にある喫茶店でコーヒーを飲みながら貴博の讃辞を聞く。貴博は幾つかの率直な意見と褒め言葉をくれて、その後、これからマリと約束あるし、と言って去って行った。
俺も外に出て日差しに目を細める。貴博が良かった、と褒めてくれたのが嬉しかった。
それから講義も終わって帰るとそんなやりとりや感想を部屋で咲と話しながら、次の日を迎えて、夕方、大学で岬さんの部屋をノックする。
「どうぞ。」
中に入る。また、部屋に入ったり顔を見たりしたら感情が溢れて来てしまうかな、そうなったら今度はどうやって切り抜けようかな、と考えていたけれども、その必要は無かったようだった。
「失礼します。」
挨拶をすると、岬さんは立ち上がって迎えてくれた。その服装は黒いスーツのスカートにブラウスで、ストッキングは履いていなかった。
「たく君、どうぞ。」
ソファーに促される。先に座ると、すぐに岬さんが原稿の束を持って向かいに座った。
「んーとね、私にはよくわからなかったかな。」
「そうですか。」
それから、自分でも驚く程すらすらと次の質問が出ていた。
「それで、岬さん個人としてはどうなんです?英文科の助教授としての意見より、岬さんの感想が聞きたいんです。」
岬さんは、こう聞かれると解っていたのだろうか。ほんの一瞬でも考える時間を持たず、すぐに返事をした。
「今のが私の感想よ。英文科の仕事だったらもっとましなレポート書いてるわ。」
「そうですか。」
と、すぐに返事はしたものの、その次の言葉はすぐには出てこなかった。
俺の書いた物は面白く無かった、という事だろうか。それとも文壇には受け入れられないという事だろうか。いや、さっき助教授としてならもっとましな意見があると言った。ということは、個人的に言う事が文字通り何も無いということだろうか。
そんなことを考えていると、岬さんが立ち上がって、テーブルを回って、俺の方のソファーへ来て、俺の隣に座って、俺の肩に頭をもたれて来た。
途端、咲の事を思いだして、正確に言えば咲への想いが胸に沸きあがって来て、その頭を跳ね除けようかどうしようか迷った。その迷っている間に岬さんがしゃべりだした。
「でも、さびしいな。だって、せっかくたくが書く気になってくれたのに、私の事、まるで無かったかのようなモン書いてくるんだもん。」
岬さんの髪の毛からは咲のとはまた違った香りがする。また、昔の岬さんとも、また違った香りがした。もしも、その香りが昔の香りと同じだったら、ここまで息が詰まるような事は無かっただろう。
「別にそういう訳じゃないですよ。」
口にしてから、声が上擦って出てくる事にびっくりする。
「だってそうじゃない。私たちの間にも思い出はあると思ったんだけどな。」
「もちろん、あるよ、あたりまえじゃないか。」
後ろから刺されたような気分だった。いや、正面から刺されたような気分だった。言われて始めて気付く。確かに俺はこの小説の中に岬さんとのやりとりから学んだ事、感じた事を含めなかった。初めから個人的な事柄を書くつもりは無かったけれども、それでもとっかかりとして私的な主題を持ってきたり、描写に経験を入れたりはしている。その過程で岬さんとのそれは敢えて外していたように思う。それも、意図して外したんじゃなくて、思い出さなかった訳でもなくて、あ、これは別に今書かなくてもいいかな、と自然に思って、それで書かずにいた。
ならなぜ、これを岬さんに読んで欲しいと俺は思ったのだろうか。
「よかった。」
甘えるような声だった。俺は岬さんのその声を聞くと安心する。そして、岬さんは忘れてさえいなければその事を知っている。
安心して、それで、岬さんの肩に腕を回すべきか、止めてください、と言って立ち上がるべきか、それとも窓の外のまだ陽の落ちない外を眺めているべきか、わからなかった。そのことに気付いて、始めて、混乱しているな、と思った。俺は今、混乱している。
それはまるで酒を飲み始めた人間が酔ってない、と言い続けていたのに、ふとした瞬間に、例えばちょっとふらついたり、考えがうまくまとまらなかったりした時に、あ、俺酔ってるな、と思うのと同じような感じだった。
自制心がもう少し少なければ、決して思わないだろう感想。
「やっぱり、岬さんにはかなわないかな。」
「んー、どういうコトかな。私にはたくの方がかなわないかな。何年もほったらかしにして、今頃現れるなんて。」
柱にかかっている時計を見ると六時を回っていたけれども、陽は一向に落ちる様子を見せなかった。
「読んでもらって、ありがとうございました。参考になりました。」
作品名:第九回東山文学賞最終選考会(4) 作家名:ボンベイサファイア